Search

検索したいワードを入力してください

石原産業事件の概要|海上保安庁/官僚/政治家
2018年10月02日

石原産業事件の概要|海上保安庁/官僚/政治家

石原産業事件を知っていますか?知らない方は、四日市ぜんそくならば知っていますか?石原産業事件は、四日市ぜんそくを起こしたと有罪判決を受けた企業の1つ、石原産業が起こした公害事件です。事件の概要、判決、関わった人物やその後について紹介しています。

石原産業事件の概要

石原産業事件の概要

四日市市

石原産業事件と聞いても、ピンと来られない方もいらっしゃるのではないでしょうか。では、四日市ぜんそくではどうでしょう。日本で起こった4大公害事件の1つとして、四日市ぜんそくは大変有名ですから、授業で習った方もいらっしゃるでしょう。今でこそ公害なんて言葉もあまり聞きませんし馴染みもないものですが、戦後の高度成長期時代には日本の各地で公害問題が起こっていました。

四日市ぜんそくで公害被害を起こしたとして有罪判決を受けた企業は6社ほどありますが、そのうちの1社が石原産業です。そしてこの石原産業が起こした公害事件が、石原産業事件と呼ばれています。

海上保安庁

石原産業事件の発端は、1968年7月に三重県四日市市の海上保安庁警備救難課長に就任した田尻宗昭氏が、違法操業(密漁)していた漁師を捕まえたことからはじまります。

四日市市で漁業を営んでいた人たちは、1955年頃から工場の排水に悩まされてきました。排水口近くで採れる魚が臭くなっていて、ついに1960年には東京築地の中央卸売り市場から取引停止となってしまったのです。当然漁師たちは排水をしている工場に損害補てんを求めますが、求めた30億のうち認められたのは1億の漁業振興費だけでした。

魚を採っても売れない、損害補てんもないということで漁師たちは生活のために違法操業をするしかないとなり、そんな現状を田尻宗昭氏に訴えたのです。

硫酸を海に

田尻宗昭氏は漁師たちの訴えを受け、公害問題に真剣に取り組むことを決めます。漁民や釣り人などに変装して水質検査をしたりしながら調査を進めるうちに、石原産業の工場が四日市港に大量の強酸性溶液(硫酸)をたれ流しにしていることをつきとめました。

1969年12月17日、ついに海上保安庁により石原産業への強制捜査が行われました。

官僚との関わり

石原産業事件について、官僚、通産省との癒着が問題視されていました。1971年2月の衆院予算委員会で石原産業の特殊工場の建設について、すでに着工しているものなのに申請の日付を規則にあわせるよう談合していた、談合があったとして社会党の石橋政嗣書記長が追求しています。

少し詳しく説明しますと、1968年に石原産業は無届けで工場を増設してしまっていましたが、このことを誤魔化すために通産省が日付をさかのぼった書類を作成し、協力していたということです。完全に企業のために通産省がしてはいけない協力をしていた、癒着があった証拠といわれています。

政治家

石原産業は戦前に石原広一郎氏が創業した企業で、戦前からの実業家である石原広一郎氏は政界とも広い付き合いがあったようです。石原産業事件での行政と企業の癒着を指摘するために、田尻宗昭氏は野党である社会党の石橋政嗣書記長と知り合い、彼に石原産業の資料などを渡したのではないか、といわれています。国会での質問の仕方について、田尻宗昭氏はレクチャーまで行ったそうです。またこのときの通産省のトップは、宮沢喜一通産大臣でした。

石原産業事件の判決

石原産業事件の判決
石原産業事件は、1980年3月17日に「有罪」の判決を受けています。石原産業株式会社に罰金8万円、当時の工場長には執行猶予つきの懲役刑が課されました。石原産業事件について控訴はなく、石原産業は判決を受け入れました。

石原産業事件の関連人物や行動

田尻宗昭

そもそも石原産業事件は、海上保安庁海上保安庁警備救難課長に就任した田尻宗昭氏が摘発の覚悟を決め、摘発に乗り出したことで公害が明るみになったものです。密漁をしていた漁師たちを捕まえたとき、「何故自分たちは捕まえて魚をとれなくした工場は捕まえないのか」といらだつ漁師たちの言葉にハンマーで殴られるような衝撃を受けたと、田尻氏自身が後に語っています。

しかし石原産業事件後、わずか3年の四日市市での勤務の後に、田尻氏は四日市市を去ることになりました。その後も「公害Gメン」と呼ばれるほどに活躍され、1990年7月4日に亡くなられました。没後に香典や寄付金を元に「田尻賞」が創設され、これ以後16年にわたって環境や労働関係で社会的不正義をなくすために頑張っている個人・団体に「田尻賞」が贈られました。

石原広一郎

石原産業事件の舞台となった、石原産業の創業者です。1920年、南洋での鉱山開発のために創業した会社、それが石原産業でした。石原広一郎氏は第二次世界大戦直後、A級戦犯容疑者として拘留されましたが、起訴されることなく釈放となりました。1949年に公職追放処分が解除されたため、石原産業の社長として復帰しています。

石原産業事件が明るみにでた後は、廃棄物処理の技術開発支援活動に尽力されていました。1970年4月4月16日に亡くなられましたが、有罪となった工場長からも「社長のためならなんでもする」と言うほどに(田尻氏の取調べによる)慕われており、カリスマ性のある人物だった様子が窺えます。

石橋政嗣

国会で石原産業事件を取り上げ、石原産業と通産省との癒着を追求した政治家です。石原産業事件については四日市港が急激に深刻に汚染された理由に、違法に増設されたチタン第二工場を挙げ、その増設について法で規定された処理施設を作らず、結果的に硫酸水を大量に海にたれ流すことになったこと、通産省がそれを指導するどころか違法を承認したと国会で質問しました。

このような国会での質問が大きな反響をえて、津地検が捜査本部を設けて取調べを行ったりしています。しかし違法な増設の談合は不起訴になっており、名古屋通産局は通達で注意し、人事異動でこの問題を終わらせました。

美濃部亮吉

東京都知事だった政治家で、昭和48年美濃部都政に石原産業事件後の田尻宗昭氏を招き、六角ロム事件などの陣頭指揮にあたらせた人物です。田尻宗昭氏は後に「公害Gメン」と呼ばれるようになる活躍をするのですが、この美濃部都知事からの要請が田尻氏の後の活動を支えたようです。石原産業事件後、田尻氏は公害問題で大活躍したと世間ではとらえられていましたが、海上保安庁内部からはけむたがられたのか左遷に近い形で和歌山に異動していました。

田尻宗昭氏は美濃部亮吉東京都知事の要請で都公害局規制部長に就任後、公害防止行政を推進し、ときには大学で教鞭を執るなどの機会に恵まれたようです。

石原産業事件のその後

石原産業事件のその後
石原産業事件の後、田尻氏などの行動については上で紹介しましたが、石原産業はどうだったのでしょうか。1969年の石原産業事件後、2005年にはフェロシルトの大量不法投棄問題を起こしています。フェロシルトは土壌補強材、土壌埋戻材として石原産業が販売していたもので、各地に埋設されたのですが、その後の調査で含有する放射線量が問題になり、埋設物の撤去要請が相次ぎました。

また、2008年には四日市工場において大量に製造する際は届出が必要だったホスゲンを無許可で製造していたことを社内調査の結果として公表しています。残念ながら、石原産業事件から40年近くたってもこのような不祥事を起こしているのですが、2008年のものは社内調査の結果であり、社長の謝罪もありました。

教訓として

教訓として
今はもう、あまり聞かない言葉となってしまった「公害」という言葉があります。石原産業事件や四日市ぜんそくなどの大きな公害事件を経て、日本は公害の少ない国へと変わっていきました。石原産業は、石原産業事件以降も不祥事を起こしてはいますが、少しずつ良い方向に向かっているのだと信じたいものです。

最近ではむしろ、日本国内よりも中国などからくる環境汚染などが問題視されるくらい日本の河川や空気はきれいになりました。公害にピンとこない方も多いでしょうが、そのような歴史が今の日本を形づくっています。いつかまた同じあやまちを繰り返さないように、教訓として覚えておきたい公害事件です。

Related