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新潟少女監禁事件の概要・関連人物と行動・その後
2018年10月02日

新潟少女監禁事件の概要・関連人物と行動・その後

2000年1月に報道された新潟少女監禁事件の少女発見の報はさまざまな意味で全国中に衝撃を与えました。9年2ヶ月の長期に及ぶ監禁生活、長期のひきこもり状態にあった犯人による犯行といったものです。新潟少女監禁事件とはどのような事件で、その後どうなったのでしょうか?

新潟少女監禁事件はどのような事件だった?

新潟少女監禁事件はどのような事件だった?
新潟少女監禁事件(にいがたしょうじょかんきんじけん)とは、1990年11月13日に新潟県三条市の路上で誘拐された当時9歳の少女が、2000年1月28日に柏崎市内の加害者の自宅で発見・保護されたことにより発覚した誘拐監禁事件のことです。

少女が監禁されていた期間が約9年2カ月と長期に及んだことや、この事件の捜査を担当した新潟県警の捜査上の不備や、それに関連した不祥事までもが次々と発覚したことなども含めて社会的に大きな反響を呼んだものでした。

さらには、新潟少女監禁事件の犯人自身が長期に及ぶ引きこもりの状態にあったことから、同じく引きこもりのの状態にあった男性が起こした2000年5月3日の西鉄バスジャック事件とあわせて、引きこもり問題に対する社会的な認知度を高めた事件とされています。

新潟少女監禁事件の被害者はどんな人物?

新潟少女監禁事件で監禁されていた被害者の少女は誘拐された当時小学4年生で、学校からの下校の途中で犯人にナイフで脅されて誘拐され、その後犯人の自宅に連れ込まれました。長期に及ぶ監禁期間の間に暴行や虐待、脅迫などを受けた影響や両手・両脚を縛られた状態で、当初の2、3ヶ月の間に脱出する意志を失わされました。

その影響もあってか、度重なる暴行を受けるうちに「殴られているのは自分ではない」と感じるような過度の防衛機能が原因の解離性障害の症状も見られました。

長期に及ぶ監禁の末に発見された時点での彼女の姿は、著しい栄養失調や脚の部分の筋力の低下、鉄欠乏性貧血、さらには骨粗しょう症によって普通に歩くことさえも困難な状態でした。さらに、とても色白でやせ細っていたともいわれています。

3364日という長期の監禁状態とはどのようなものだった?

新潟少女監禁事件において犯人が少女を監禁していた日数は3364日、わかりやすい数字に直せば9年2ヶ月という長期に及ぶものでした。この長期に及ぶ監禁の状況とはどのようなものだったのでしょうか?

まず、犯人は最初の2、3か月間で少女の両手足を縛って身動きの取れない状態で顔面などに暴行を与え、また脅迫的な言葉を浴びせました。最初の1年で両手足の縛りは解いたものの、その後も長期にわたって暴行は続きました。

また、犯人は一緒に暮らしている母親に少女の監禁が知られないように、少女にろくに食事を与えませんでした。このため長期に及ぶ監禁状態の中で彼女の体調は悪化し、筋力も著しく衰えたため、発見されたときには自力での歩行もできないほどでした。

ただ、犯人は少女に「彼女の考えが子供のままでいないように」するために、時事ニュースや流行についての知識を与えるためとして、新聞や漫画などを与えていました。

新潟少女監禁事件の少女はどのように保護された?

新潟少女監禁事件で監禁されていた少女は実に9年2ヶ月もの間家族から引き離され、監禁状態に置かれていました。その少女はどのようにして発見されたのでしょうか?

後に書くことになりますが、犯人は強迫性障害を抱えており人間関係でも苦労している人物でした。そして、それが悪化して同居していた母親に対する家庭内暴力も目立っていました。

度重なる暴力に悩んだ母親は保健所職員が紹介した精神病院の医師に犯人の治療に当たらせていました。しかし、その後も犯人による暴力は激しくなる一方であったため、強制入院による治療を目的に保健所の職員や担当医師、市の職員が犯人の部屋に入ったところ、動く毛布の塊を見つけたのです。

そこで、市の職員がハサミで切り開いてみると色白の少女が現れたため、病院へ向かう車中で名前や住所などを聞くと10年近く前に行方不明になった少女と同一人物であることが明らかになったのです。

新潟少女監禁事件の犯人の人物像とは?

さて、この新潟少女監禁事件の内実はその長期に及ぶ監禁生活や、犯人の異常性から極めて特異な事件という認識を社会に植え付けました。少女を監禁していた犯人はいったいどのような人物だったのでしょうか?

犯人の生い立ちはどのようなものだった?

犯人は1962年生まれで、両親が比較的年齢がいってからの子供ということで、少年時代は非常に溺愛されて育ちました。その溺愛ぶりは、犯人が成人してからも「ボクちゃん」と呼ばれていたほどです。

が、中学生のころから不潔恐怖症を発症するようになったうえ、いわゆる潔癖症の症状も見られわずかな汚れさえも気になって落ち着かなかったほどでした。一方で薄汚れて見えるようになってきた父親に対する憎悪も増すようになっていました。

高校のころになると大柄な体格をしている一方で、言動に覇気が見られなかったことから、同級生に「オカマ」呼ばわりされるようになり、やがて自分の殻に閉じこもることが多くなっていったのです。そして、その鬱憤を晴らす場を家に求めるようになっていったのです。

精神疾患の患者としての犯人

この男性は高校卒業後、地元の製造会社に就職したものの、人間関係の点でうまくいかなかったことからまもなく会社を辞め、それ以来引きこもりの生活を続けていました。さらに、もともと強迫性障害といった精神疾患にかかっており、逮捕後の精神鑑定でも強迫性障害のほか小児性愛のことも報告されています。

また、新潟少女監禁事件の数年前から母親に対する家庭内暴力も見られるようになり、それは年を追うごとにひどくなっていきました。

小児性愛に関しては、新潟少女監禁事件の発生する1年5ヶ月前にも、犯人の地元である柏崎市内において当時9歳の少女に対する強制わいせつ未遂の容疑で現行犯逮捕され、その後の裁判で懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けています。なお、新潟少女監禁事件はその事件の執行猶予中に起こったものでした。

新潟少女監禁事件の関連人物とその行動はどのようなものだった?

新潟少女監禁事件の関連人物とその行動はどのようなものだった?
新潟少女監禁事件は少女発見に至るまでの期間の長さや、報道された犯人の異常性などから社会的に広く認知された事件でした。その事件にかかわった人々はどのような人物で、そして当時その人たちはどのように行動したのでしょうか?

ここでは、新潟少女監禁事件を加害者や被害者、そして捜査関係者など関連人物という側面から見ていきたいと思います。

佐野房子:被害者の実名とそれにまつわる報道とは?

まず、この新潟少女監禁事件において監禁され、最終的に発見・保護された少女についてですが、実は実名が報道されたことがあります。

少女の実名を報道したのは地元の新聞である三條新聞で、元から新潟少女監禁事件の取材に積極的でした。そして、この新聞社によって少女の名前が「佐野房子」であること、そして本人の写真と家族の写真が一緒に掲載されたのです。

しかし、この地元新聞社の報道に対して、新潟市の市民団体から人権侵害という理由で抗議が寄せられました。このため、新聞社側は実名による報道の理由を社告で説明したうえで、匿名報道に切り替えました。

犯人に対する実名について

新潟少女監禁事件で少女を監禁していた犯人については当初その実名は公表されておらず、主要マスコミも「男」という呼称によって匿名で報道していました。これは、犯人が精神障害者である可能性を含んでいたため、世間の精神障害者に対するイメージダウンを防ぐ目的があったためといわれています。

しかし、その後の犯人に対する捜査や精神鑑定の結果、警察側(新潟県警)が犯人の刑事責任を問うことができるという見解を示したため、実名報道に転じ、犯人の高校のころの写真の報道に踏み切りました。

なお、この新潟少女監禁事件の犯人の実名は「佐藤宣行」です。が、実名報道に切り替えられた後、ワイドショーや週刊誌では彼の犯行の異常性をことさら強調する内容の報道がなされていました。

犯人の母親について

次に新潟少女監禁事件の犯人の母親についてですが、すでに息子である犯人から長期にわたって家庭内暴力を受けてきたことは触れました。それでは、9年2ヶ月にもわたって少女が自宅内で監禁されていたにもかかわらず、なぜ母親は少女の存在に気付かなかったのでしょうか?

それは、犯人が巧妙なほどに少女を見られないようにしたためでした。誘拐直後に自宅に連れ込んだ際も自宅の別の玄関から中に入ったこと、階下に母親がいるときは少女が部屋で運動することさえも禁じたことからもうかがえます。

また、母親の方も度重なる暴力から、犯人の部屋に長年にわたって出入りしていなかったこともありました。この点は母親自身が警察の事情聴取に対して供述していることでもあり、また少女の監禁部屋に母親の指紋が1つも見つからなかったことから証明されていることです。

なお、母親が少女が監禁されていることを知ったのは、少女発見の際のことでした。

事件の長期化と警察の捜査との関連性は?

事件の長期化と警察の捜査との関連性は?
今度は警察の捜査という点から新潟少女監禁事件の捜査や、事件の長期化について見ていきましょう。

新潟少女監禁事件の発生直後の11月13日夜、少女の母親は警察に少女の捜索願を駐在所に出していました。その捜索願を受け地元を担当する新潟県警三条署や少女の通っていた学校の関係者など100人以上が捜索を開始しました。

しかし、手掛かりすら見つからない状況であったため、15日には三条署内に対策本部が設置され、周辺市町村をも対象区域としたより本格的な捜査が行われるようになりました。

それでも手がかり1つ見つからなかったことから次第に警察関係者にあきらめの色が見え始め、19日には捜査のための人員が大幅に縮小され、以後は毎年11月13日に三条署の警察官が少女の通っていた学校や路上でチラシを配布して情報協力を求めるという形で捜査が続けられました。

北朝鮮による拉致事件との類似

事件の長期化と警察の捜査との関連性は?
新潟少女監禁事件は北朝鮮による拉致事件との関連が疑われたことすらもありました。

当時、新潟少女監禁事件を報じていた新潟日報は、少女が誘拐されて失踪した状況が、学校からの下校途中だったことや疾走した時間帯が秋の夕暮れ時だったことから、1977年に北朝鮮の工作員によって当時中学生だった横田めぐみが学校からの下校途中で拉致されたという状況に類似していると報じました。

このため、人によっては北朝鮮による拉致被害者がまた1人出たのではないかと疑うケースが少なくありませんでした。

少女発見前後の警察の対応とは

新潟少女監禁事件は、少女の誘拐から9年後の2000年1月28日に少女は犯人宅で発見・保護されるに至りますが、この際の警察の対応はどのようなものだったのでしょうか?

犯人の精神疾患や家庭内暴力が原因で母親が精神科医や市職員らに強制入院をさせるよう依頼を受け、彼らが犯人の部屋に入った際に、市職員が監禁されている少女を発見しました。警察側(柏崎署)としては犯人が強制入院が必要という報告は受け取っていましたが、市職員が身元不明の少女を発見したことについては当初出動を渋っていました。

しかし、そのあとで市職員が少女に名前や住所などを聞いた後に、改めて9年前に行方不明になった少女ではないかと考え、柏崎署にあらためて連絡しました。柏崎署では少女の指紋鑑定の後に誘拐された少女と同一人物であると断定し、少女の母親に連絡しました。

警察による不祥事はどのようなものだった?

実はこの新潟少女監禁事件においては、地元警察による不祥事もクローズアップされています。これだけ世間を騒がせた事件であったにもかかわらず、同時に警察の不祥事も明るみに出たこと自体が警察にとっては不名誉な話ですが、いったいその内実とはどのようなものだったのでしょうか?

少女発見の際の状況に対する虚偽発表があった

新潟少女監禁事件で少女が発見された2000年1月28日夜、三条署は記者会見を開き少女発見の報告をしました。しかし、この際に公表されたことについて、犯人の強制入院の依頼を受けた保健所の所長から事実と異なるという指摘がされました。そして、このことがきっかけで少女発見時に警察側が即座の出動要請を断っていたことが明るみに出たのです。

結局この件に関して柏崎署は釈明会見を開いて、迅速な対応ができなかったことや少女を保護した場所を病院と発表したことを謝罪しました。

初動捜査時に不備があった!?

新潟少女監禁事件について明らかになった警察の不祥事は、少女が監禁された時点での捜査手法にも及びました。つまり、犯人が新潟少女監禁事件の前に引き起こした別の少女に対する強制わいせつ未遂事件の執行猶予期間であるにもかかわらず、新潟少女監禁事件の発生時に彼の前科に関するデータを県警本部に送っていなかったことが問題視されたのです。そして、そのことが事件の長期化を引き起こしたとも指摘されました。

この件に関しては、少女発見の後の最初の定例記者会見の場で県警側が犯人の前科に関するデータの登録不備を認めるに至りました。

県警本部長らによる不適切な対応

新潟県警もまた新潟少女監禁事件の少女発見の時点での県警本部長の対応のまずさも不祥事という形でやり玉に挙げられました。

少女が発見された当日、県警本部には東京から警察庁の幹部(関東管区警察局長)が視察に来ており、県警本部長はその対応に追われていました。ちょうど関東管区警察局長をもてなすために本部長が県内のホテルに向かっている間に少女発見の報が伝わったうえ、ホテルでの宴席の会場でも追加報告が入ってきていたにもかかわらず、本部長は県警本部に戻って陣頭指揮をとらなかったことが問題とされました。

ちなみに、関東管区警察局長も戻るよう促したものの、本部長はそれを聞きませんでした。そのうえ、そのあとも予定通り視察などを続けていました。

この件はその後、警察庁内部での不祥事という扱いになり、警察庁からも特別の調査チームが派遣されて不祥事の内実の調査がなされたうえ、国会でも取り上げられる事案となりました。

新潟少女監禁事件のその後は?

新潟少女監禁事件のその後は?
足かけ9年2ヶ月もの長期にわたって少女を監禁した状態が続いてきた新潟少女監禁事件ですが、その後や現在はどのようになったのでしょうか?

ここでは、少女発見の後に新潟少女監禁事件の加害者や被害者がどうなったか、そして新潟少女監禁事件にまつわる裁判はどのように進展したかについて見ていきたいと思います。

現在はどうなった?

まず、新潟少女監禁事件のその後がどのようになったかを簡潔に記しておきます。

少女発見および犯人の逮捕から22日後には、新潟少女監禁事件の犯人は新潟地方検察庁によって起訴されました。容疑は未成年者に対する略取誘拐と逮捕監禁致傷ですが、このうち被害を受けた少女の精神的な苦痛(心的外傷後ストレス障害<PTSD>)については起訴理由から除外されました。裁判の中での少女の精神的負担やプライバシー侵害を未然に防止するためです。

並行して犯人の精神鑑定が行われたあと、裁判は最高裁まで進み、2003年7月に最終的な判決が下って懲役14年の有罪判決となりました。

なお、新潟少女監禁事件での少女発見から約4ヶ月後の2000年5月3日、九州で西鉄バスジャック事件が発生し、この時の犯人も引きこもり状態だったことから、引きこもりに対する社会的認知度がこのころから増すようになりました。

裁判はどのように進んだのか?

さて、新潟少女監禁事件の裁判はどのようにして進展したのでしょうか?

新潟少女監禁事件の初公判は2000年の5月23日に開かれましたが、第2回公判の前日に検察側は犯人が少女に着せるための服を万引きしたとして窃盗罪で追起訴を行いました。検察側としては併合罪によって犯人の有罪判決をより重くしようという意図がありました。

結局、新潟地裁判決では懲役14年が言い渡され、その判決文の内容も犯人の反抗に対する厳しさが随所にちりばめられたものでした。そして、犯人の刑事責任も精神鑑定の結果、問うことができることも示唆したものでした。

その後、東京高等裁判所では懲役11年の有罪判決が言い渡されましたが、最高裁ではあらためて第一審を支持する形で懲役14年の有罪判決が確定しました。いずれも新潟少女監禁事件での犯行の悪質さや少女への影響の重大さから情状酌量の余地はないという判断に立ったものでした。

新潟少女監禁事件の被害者のその後は?

新潟少女監禁事件の被害者のその後は?
9年2ヶ月にもわたって監禁された状態で発見された新潟少女監禁事件の被害者の少女はその後どうなったのでしょうか?

彼女は発見時、体調面でもひどくやせ細っていた上に、自力での歩行さえ難しいという状態でした。さらに、長期に及ぶ監禁やその中で受けた心身面での暴力の影響で心的外傷後ストレス障害(PTSD)など精神的にも多大な被害をこうむっていました。

学習面でも長期にわたって教育を受けられない環境におかれていたためかひどく立ち遅れており、またコミュニケーションについても発見された直後は初めて会う人や異性には全く心を開かないという深刻な状況でした。

ただ、発見から数年後には自動車教習所にも通えるくらいになったうえ、家族とともにスポーツ観戦や家族旅行に出かけるなど日常生活を楽しんでおり、時間の経過とともに新潟少女監禁事件での監禁の間に失った日常を徐々に取り戻してきているという状態です。

新潟少女監禁事件の犯人は出所しているのか

新潟少女監禁事件の犯人は出所しているのか
一方で懲役14年の判決を受けた新潟少女監禁事件の犯人の方はその後どうなったのでしょうか?

実は新潟少女監禁事件の公判を受けている頃から彼の体重は減少し続けていましたが、刑務所に収監された後は体重の減少が著しく見られるようになりました。しまいには、自力での歩行が難しく介助が必要なくらいにまで悪化したため、医療刑務所に移送されるようになりました。

なお、新潟少女監禁事件の犯人の母親は犯人が収監された後は認知症の進行によって介護施設に入所したため、息子の面会には行っていなかったといわれています。

懲役14年ということで2014年に出所しましたが、実は服役している間に精神障害者認定を受けました。医療刑務所での収監中も向精神薬を服用していたことが認定の決め手となったものです。

新潟少女監禁事件が残したものとは?

新潟少女監禁事件が残したものとは?
新潟少女監禁事件についてさまざまな面から見てきましたが、いかがでしたか?

新潟少女監禁事件は、精神障害があって引きこもりの状態にあった男性が下校途中の少女を拉致・監禁しその期間が9年2ヶ月に及んだことや、発見の同年に起こった西鉄バスジャック事件とともにひきこもり状態の人間が起こした事件であったこと、さらに捜査を担当した警察の不祥事が明るみに出たことから広く世間に認知された事件でした。

同時に新潟少女監禁事件は、犯人の精神障害による人間関係での苦しみなどが引き起こしたものでもあり、またその影響は被害にあった少女の心身面での深い傷にとどまらず、犯人のその後にも、また警察に対する目線にも大きく作用しました。

そういう意味では、新潟少女監禁事件は単なる長期に及ぶ少女監禁が行われた事件というだけではとても片づけられないものだったといえるのです。

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