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【樋口季一郎とは】オトポール事件の詳細や経歴をわかりやすく解説
2019年03月22日

【樋口季一郎とは】オトポール事件の詳細や経歴をわかりやすく解説

ユダヤ人を救った代表的な日本人、杉原千畝。しかし、日本ですら語られない影の英雄が一人、実在しました。その人物の名は樋口季一郎。あのA級戦犯である東条英機も関わったとされる、オトポール事件とは一体どのようなものであったのか、この記事で迫っていきたいと思います。

「ゴールデン・ブック」に載った日本人、樋口季一郎

さて、あなたはユダヤの聖典「ゴールデン・ブック」「シルバー・ブック」をご存知でしょうか。

これはユダヤ民族に貢献した人物の名を刻んだ、記念碑のことです。

「ゴールデン・ブック」にはユダヤ出身の傑物の名が。「シルバー・ブック」にはユダヤのために尽力した外国人の名がそれぞれ刻まれています。

しかし、ユダヤ出身ではないにも関わらず、その名が「ゴールデン・ブック」に記されている日本人が三人いました。

一人は「命のビザ」を発行し、多くのユダヤ人の逃亡ルートをつないだ杉原千畝。

そして、その2年前。第一回ユダヤ人大会にて、ナチス・ドイツを間接的に批判してユダヤ人から喝采を浴びた、樋口季一郎もそのうちの一人でした。

歴史の闇に隠された軍人、樋口季一郎とは?

樋口季一郎とは、1888年~1970年を生きた陸軍軍人でした。

杉原千畝は有名でも、樋口季一郎を知っている方は日本でもほとんどいません。彼は一体日本にどのような功績を残したのでしょうか?

ここからは彼の生い立ちやオトポール事件前の経緯を解説していきます。

樋口季一郎の生い立ち、実の親は離婚

樋口季一郎は兵庫県淡路島出身で、父・久八、母・まつの長男として生を受けました。

実は、本来の樋口季一郎の姓は奥濱でしたが、父の代で奥濱は没落し、11歳で両親が離婚しています。その後、父の弟、勇次が樋口家の養子として季一郎を迎え、樋口姓を名乗るようになりました。彼がまだ18歳の頃のことでした。

樋口季一郎は幼少の頃から成績優秀で、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、難関とされた陸軍大学校を卒業したエリートでした。その傍らで東京外語学校にてロシア語を学び、これも優秀な成績を修めています

樋口季一郎、オトポール事件までの経歴

樋口季一郎は陸軍大学校卒業後、かなりのロシア通だったことも手伝い、ロシアのウラジオストクに赴任しました。

その後満州・ロシア方面を転々として、オトポール事件の頃には満州のハルビン特務機関長を務めていました

大正8年(1919年)7月 - 大尉に昇進、参謀本部附勤務。
12月 - ウラジオストク特務機関員として派遣軍司令部附(シベリア出兵)。ロシア系ユダヤ人ゴリドシュテイン家の一室に住む。キャディラックを扱う貿易商。
大正9年(1920年)ハバロフスク特務機関長として孤立。(無責任な上層部への義憤)
大正11年(1922年)4月 - 参謀本部員。
大正12年(1923年)12月 - 朝鮮軍参謀。
大正13年(1924年)8月20日 - 少佐に昇進[22]。
大正14年(1925年)5月 - ポーランド公使館附武官。ウクライナほかを視察
昭和3年(1928年)2月 - 山東省青島に駐留。歩兵第45連隊附。
7月 - 帰朝。
8月10日 - 中佐に昇進[22]。
昭和4年(1929年)8月 - 技術本部附(陸軍省新聞班員)。
昭和5年(1930年)8月1日 - 東京警備参謀。
昭和8年(1933年)
3月18日 - 大佐に昇進、東京警備司令部附。
8月1日 - 福山歩兵第41連隊長。
昭和10年(1935年)8月1日 - ハルビン第3師団参謀長。
昭和12年(1937年)3月1日 - 参謀本部附(ベルリン出張)。
8月2日 - 少将に昇進、ハルピン特務機関長。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3... |

日本の美談!オトポール事件とは?

1937年。当時のナチス・ドイツは反ユダヤ政策を掲げ、逆らう国には一切容赦しませんでした。そのため、逃げてきたユダヤ人の受け入れを拒否するなど、ヨーロッパやアメリカでさえも長い沈黙を保っていた時代でした。

当然、それは日本も例外ではなく、ユダヤに手を貸すことは外交的大問題になったのです。

しかしその年の12月。第一回極東ユダヤ大会に出席していた樋口季一郎は、同盟国であるはずのナチス・ドイツに向けて批判的発言を述べ、大会に出席していたユダヤ人から惜しみない拍手を送られました。

それを機に、樋口季一郎はドイツからも日本内部からも睨まれることになりますが、そのような状況下で翌年に事件が起きます。

ここからは樋口季一郎が独断遂行したとされる、オトポール事件の詳細を語っていきたいと思います。

ユダヤ人の救いの手、「ヒグチ・ルート」

1938年3月。樋口季一郎は満州でユダヤ協会の代表、アブラハム・カウフマンから緊急の相談を受けました。

ソ連・満州の国境に位置するオトポール駅(現在のザバイカリスク駅)にて、通行許可がおりなかった18人のユダヤ人が立ち往生しているとのことでした。これは、ドイツの驚異を恐れた満州が入国を渋っていたのが原因で、身一つで来ていたユダヤ人はあまりの寒さに凍死寸前まで追い込まれていたのです。

事態を重く見た樋口季一郎は、急ぎユダヤ人達に食べ物と暖かい衣類を与え、満州鉄道を取り締まっていた松岡洋右に上海行きの列車を要請しました。
この特別列車をユダヤ人達は「ヒグチ・ルート」と呼び、これを頼る難民が連日訪れました。

1938年に245人、39年に551人、40年にゆうに3,574人もの人々が「ヒグチ・ルート」を使ったとされます。

翌年、41年の記録は存在しませんでしたが、二万人とも、五千人とも言われております。

樋口季一郎に非難の声が集まる

樋口季一郎の独断専行に怒り心頭だったのは、かつてヒトラーの腹心だったドイツのリッベントロップ外務大臣でした。

日本にすぐに抗議文書が届き、日本国内でも樋口の批判と処分の声が上がりました。

関東軍司令官であった植田謙吉に手紙を送った樋口季一郎は、司令部に出頭し、そこであのA級戦犯となる東條英機と面会することになります。

「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。

満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」

(樋口季一郎、1938年 関東軍指令植田謙吉大将への書面より)

出典: https://pattayaja.com/2019/02/16/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81... |

樋口季一郎の協力者、東條英機

「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3... |
樋口季一郎は、東条英機に向けてこのように語ったとされます。

彼の信念に感じるものがあった東條は樋口季一郎を不問にし、その後外務大臣の抗議に以下のようにきっぱり言い放ちました。

同盟国であったドイツが抗議。その抗議を東條が握りつぶしたこと。

ナチスの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に入国させたことに対するドイツ外務省の抗議を、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したこと。

出典: https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/... |
前から東條を快く思ってなかった樋口季一郎も、これには「東條は話のわかる人だ」と述べています。

オトポール事件の背景

この事件は、東條英機の参入により収束しましたが、3点の疑問が残されました。

樋口季一郎は、窮地に立たされてまでユダヤ人を助けることを選んだ理由とは。さらに、「ヒグチ・ルート」を使ったユダヤ人達の記録を残さなかった理由とは。最後に、事件が歴史の闇に葬られた理由とは一体何だったのか。

ここからは、オトポール事件に隠された樋口季一郎の思惑を解き明かしていきます。

ユダヤ人と接点があった樋口季一郎

ユダヤ人と接点があった樋口季一郎
樋口季一郎がユダヤ人を助けた理由。

それは、樋口季一郎はウラジオストック時代にコーカサス地方を旅行し、そこで一人のユダヤ人の老人と出会い、家に招かれたことがあったからです。

その老人はユダヤの迫害の事実や、日本の天皇を救世主であると涙ながらに語ったそうです。

このことを樋口季一郎は憶えており、オトポール事件の時にふいによぎったと述べています。

ごまかされた41年の記録

ごまかされた41年の記録
何故41年の記録はごまかされたのか。

樋口季一郎はユダヤ人に衣食の提供、逃亡の手助けを融通しましたが、正確な記録を取ることをわざとしなかったのです。

これはもちろん、する必要があったことでしたが、記録をすれば政治的問題の証拠になってしまいます。よって、記録をあやふやにすることで、ドイツからの非難をかいくぐったのでした。

東條との一件の後、ドイツは急に樋口季一郎への非難を止め、押し黙ります。これを見ても、樋口季一郎の作戦が効果的だったことが見て取れますね。

世界的に認められた、杉原千畝との差

樋口の名は「ゴールデン・ブック」に刻まれ、リッベントロップ外務大臣からの抗議文書は現存しておりますが、この事件はほとんどの国で隠蔽され、樋口季一郎の奥方でさえその存在を知らされていませんでした。

何故でしょうか?

それは当時、世界中で「日本の軍人は悪」「軍国主義=反人道主義」という認識があったからだと推察されます。

加えて、前述したオトポール事件の隠滅。情報をあまり公開されることがなかった世間では、樋口季一郎はよほど悪者に映ったことでしょう。

こうして、樋口季一郎は自分が称賛されることを捨て、人道主義に生きたのです。

軍人だから、持ち上げたくなのでしょう。外交官の杉原千畝のことですら、歪曲し・隠蔽しながら、いやいや取り上げている、そんな感じです。

戦前日本や日本軍に、良いイメージを与えて、現代の日本国民に、過去を見直されてしまうと、いろいろ困る人たちが多いのだろうと思います。

いじくり出して公的に研究されると、つながって各方面に波及してしまい、例えば、悪の権化、大戦犯になっている東条英機への見方にも、光が差してしまいますから。

樋口季一郎に光が当てられてこなかった原因としては、そんなこと=敗戦以来の主流の歴史観=が、ベースにおいて影響していると思われます。

出典: https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/... |

事件後、樋口季一郎の経歴

樋口季一郎の活躍はオトポール事件だけに留まりませんでした。

1942年に日本の北方方面で司令官として配属され、太平洋戦争時にアメリカ、ソ連からの防衛に努めます。この時も、数々の伝説を後世に残しました。

アッツ島玉砕・キスカ島撤退戦

樋口季一郎が指揮をとっていた1943年のアッツ島の戦いでは、アメリカ軍を相手にかなり苦しい戦いを強いられました。やがて、この時日本軍は歴史的大敗を経験します。戦死者は2000人強に登り、生存者はわずか28人だけでした。

この戦いは、日本軍が敗北したと初めて発表された戦いでもありました。樋口季一郎が背負った業は計り知れないものだったでしょう。

しかし、その直後のキスカ島からの撤退戦では、樋口季一郎は勇気ある判断によって一人の血も流すことなく、部下を撤退させることに成功しました。この決断は現在、彼を取り上げた書籍で称賛されております。

終戦直前、占守島の戦い

終戦時の対ソ連戦(占守島の戦い)でも、樋口季一郎は勇猛ぶりを発揮しました。

その後太平洋戦争の終わりと共に、東京裁判でソ連側から戦犯として指名されましたが、この報せを聞きつけたユダヤ人が黙っていませんでした。

ユダヤ人は抗議運動を実施して米国防総省に掛け合い、それを受けたダグラス・マッカーサーは樋口季一郎の引き渡しを拒否、処刑を免れたのです。

樋口季一郎の晩年


樋口季一郎は1970年に82歳で亡くなりました。

戦争について多くを語ることはなかった人でしたが、毎朝アッツ島に向かって祈りを捧げることを日課とし、軍人時代をずっと憂えていました。

さらに、児童小説家であり、樋口季一郎の書籍も執筆した相良俊輔氏に「私は2000人の部下を殺したんだ」と語ったとされます。

樋口の孫、ユダヤの聖地を訪問

樋口季一郎の孫で、明治学院大学名誉教授を務める隆一氏は、2018年6月に「ユダヤ人の国家」であるイスラエルを初めて訪問しました。
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この時に「ゴールデン・ブック」を閲覧し、当時樋口季一郎に助けられたユダヤ人の子孫と対面しました。

彼は以下のように話しています。

「今回の訪問で祖父の行為はイスラエル建国にとり非常に大きな意味を持っていたと実感し、大きな感動を覚えました」(樋口名誉教授)

出典: https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180810/soc1808100018-n1... |

ユダヤ教徒、戦犯たちを称賛

2014年6月に、ザ・リバティwebがユダヤ教聖職者のマーヴィン・トケイヤー氏をインタビューしました。

マーヴィン氏は、反ユダヤ政策の最中ユダヤ人を救ったのは日本だけだった、しかもA級戦犯として裁かれた人々のお陰であったと力説しています。

東京裁判でのことも残念でならないとマーヴィン氏は言いました。その日、ほとんどの裁判官はやって来ず、そのような場で裁かれ、処刑されたのだと。

ユダヤ人の中には、日本へ渡った人々もいましたが、どの人も衣食住を十分に受けられ、一人の死者も出なかったと話しています。彼らは日本を「エデンの園」と呼んでいました。

ゴールデンブックに彼ら戦犯の名はありませんでした。それは、ユダヤ人と直接面識がなかったからです。ユダヤ人が東條英機ら、処刑された軍人たちにもし会っていたなら、間違いなく彼らを救い、表彰しただろうと彼は話しました。

38年12月、首相、陸相、海相、外相、蔵相が集う最高位の国策検討機関「五相会議」で「ユダヤ人対策綱領」が決定されます。

これは「日本が長年にわたり主張してきた人種平等の精神」に基づいて「ユダヤ人を平等に扱う」というものです。相当な「反ナチス政策」で、世界のどの国もそんな決定はできませんでした。世界中の人々が知るべきものです。これを提案した板垣征四郎陸軍大臣を筆頭に、五相会議を開いた5人は全員がヒーローです。彼らはもっと勲章を受け、尊敬されるべきです。

出典: https://the-liberty.com/article.php?item_id=14338 |

ゴールデンブックに載った、もう一人の男

「ゴールデン・ブック」の話に一旦戻りましょう。

この聖典に載った3人目の人物、安江仙弘陸軍大佐について紹介します。


ユダヤ人のために生きた、安江仙弘

彼は当時、日本では大変珍しかったユダヤ問題の研究に取り組み、オトポール事件の時に樋口季一郎と共にユダヤ人救出に力を注いだ者の一人でした。

ドイツが不当をぶつけてきた時に彼は抗議も虚しく軍人をクビになりましたが、その後もユダヤ人に尽力。終戦後の満州にて、逃亡を図った軍人に憚らずその場に踏みとどまり、最後は収容所で病死しました。

この功績をユダヤ人は讃え、「ゴールデン・ブック」に「コロネル・エヌ・ヤスエ」(N.ヤスエ大佐)と名を記したのでした。

現代に残る、樋口季一郎の軌跡

ここからは、樋口季一郎の関連書籍を一部紹介します。

書籍の数はまだまだ少ないですが、樋口季一郎の名は近年、徐々に広まりつつあります。

本人著『樋口季一郎回想録』

1999年に芙蓉書房から出版された、樋口季一郎回想録はなんと言っても外せません。

この本は樋口季一郎本人が執筆し、激動の人生を歩んだ軍人時代を描いております。

樋口と面識のあった相良俊輔の『流氷の海』

2010年に刊行された相良俊輔の著書。相良氏は昭和58年に亡くなっていますが、生前樋口季一郎と親交があった人物です。

「流氷の海 ある軍指令官の決断」の著者であり、樋口氏を慕って墓所を妙大寺に求め、没後、樋口季一郎氏の墓地の近くに葬られている。

出典: http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/jisya/myoud... |

作家、早坂隆の『指揮官の決断』

2010年に発行された新書『指揮官の決断』もお見逃しなく。「幻の甲子園」「世界の日本人ジョーク集」で知られるノンフィクション作家、早坂隆さんが書いた力作評伝です。

真の英雄、樋口季一郎

敗戦後、悪とみなされてその功績を葬られた樋口季一郎は、今は神奈川県の妙大寺で静かに眠りについています。国を護り、たくさんの命を救った彼に似つかわしくないほど、そのお墓は小さいものでした。

樋口季一郎も東條英機も、一方から見れば多くの敵を殺し、部下を殺した大罪人なのでしょう。しかし、それは本当に彼らの本質だったのでしょうか。彼らがどんな人間だったのか、それはもしかしたら、今の日本人とあまり変わらないのかもしれません。

毎年、樋口季一郎の生き様に感銘を受けた人々が、命日になるとお墓参りに来ています。そして、その功績に見合わないこじんまりとしたお墓に涙するそうです。

やがて、歴史の蓋が開かれ、戦犯たちの「人種平等」の信念が世界に認められることを願って。

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