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【吉展ちゃん誘拐殺人事件まとめ】事件の真相・犯人の小原保とは
2019年03月21日

【吉展ちゃん誘拐殺人事件まとめ】事件の真相・犯人の小原保とは

日本の犯罪史に残る一つの事件である吉展ちゃん誘拐殺人事件。この記事では事件の全貌や、犯人の小原保の生い立ち・捜査を解決に導いた「警視庁の至宝」こと平塚八兵衛刑事の活躍をまとめていきます。尊い犠牲のもとに、法律を変えたこの凄惨な時事件を風化させないためにも。

吉展ちゃん誘拐殺人事件とは?

吉展ちゃん誘拐殺人事件と今から50年以上前となり、若い世代には馴染みや聞き覚えがない人も多いでしょうか。しかしこの事件は日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、その経緯から犯罪史に残る男児誘拐殺人事件です。一部を縮めて吉展ちゃん事件と呼ばれることもあります。

この事件は解決まで2年3ヶ月も経過しており迷宮入り寸前でしたが、しかも犯人が身代金の受け取りを成功しており、勝ち逃げ寸前の所で各関係者の尽力によって、犯人の小原保の逮捕に結びついた逆転劇でした。

この記事ではそんな「戦後最大の誘拐事件」とも呼ばれている吉展ちゃん誘拐殺人事件について解説していきます。


吉展ちゃん誘拐殺人事件のあらすじ

吉展ちゃん誘拐殺人事件は小原保によって引き起こされた男児誘拐事件です。1963年に東京都の台東区に住む村越吉展ちゃんが行方不明となり、身代金50万年を犯人である小原保が要求。何度かのやり取りがあった後に小原保は身代金の受け取りに成功しましたが、誘拐していた村越吉展ちゃんは返さずに行方を眩ませました。

そのまま未解決のままに2年以上の月日が流れましたが、関係者の尽力のもとで小原保は逮捕されること。そして犯人の小原保の供述のもと、吉展ちゃんを捜索した結果、埋められた白骨化した吉展ちゃんが見つかる形に。

最終的に小原保は死刑の判決をくだされることとなり、吉展ちゃん誘拐殺人事件は幕を下ろしましたが、吉展ちゃん誘拐殺人事件が世間に与えた影響は非常に大きいものでした。

吉展ちゃん誘拐~小原保が身代金を受け取るまで

それでは事件のあらすじを確認した所で、吉展ちゃん誘拐殺人事件を時系列順に細かく追っていきましょう。この事件で小原保は身代金の受け取りには成功しておりますが、吉展ちゃんは返されることはありませんでした。

まずは吉展ちゃんが誘拐され、犯人である小原保が身代金を受け取るまでの流れを見ていきます。

吉展ちゃんが台東区の公園で行方不明に

始まりは1963年の3月31日の16時過ぎ、台東区の入谷町で遊んでいた村越吉展ちゃんが、住居の近所である台東区入谷南公園で遊びに出かけていた所、突然に行方不明となります。当然両親は警察に相談しますが、行方不明になった当時は誘拐とは思われていませんでした。

台東区入谷南公園近辺の地図を以下に示します。

吉展ちゃん誘拐事件は報道協定へ

吉展ちゃん誘拐事件は報道協定へ
■4月1日■
吉展ちゃんが行方不明になった翌日。吉展ちゃんの目撃証言のひとつとして「公園で30代の男性」と会話していたことが発覚。この行方不明事件は誘拐の可能性の線も疑うこととなり、警視庁捜査一課は捜査本部を設置へ。

■4月2日■
小原保から両親へ身代金「50万」の要求の連絡が入ります。当時のサラリーマンの初任給は2万円ですから、かなり高額な身代金の要求であることはわかりますね。

この時に警察は報道機関に対し、犯人を無為に刺激しないように報道を自粛。つまり今で言う報道協定を結びます。これは国内の誘拐事件において、初めて報道協定が結ばれた案件となりました。

CHECK→報道協定とは?

報道協定(ほうどうきょうてい)とは、警視庁や道府県警が新聞・テレビなどのマスメディアに対して報道を一切控えるように求めることによって、マスメディア間で結ばれる協定のこと。主に身代金目的の誘拐事件やハイジャックなどの立てこもり事件など、人質事件が発生した場合において用いられる。

日本特有のもので、平時の外国には存在しない(統制が敷かれるのは戒厳が発令された場合)。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%81%93%E5%8D%94... |
雅樹ちゃん誘拐殺人事件を踏まえて対応したと言われています。別件となりますので、このまとめ内では深くは触れません。

噛み合わない犯人と警察の動き

噛み合わない犯人と警察の動き
■4月3日■
小原保から「子供は返すから現金を用意しておけ」と指示が入ります。

■4月4日■
前日と同じく身代金要求の連絡。警察は犯人の電話を録音し、後にこの音声は捜査の際に一般公開されることとなります。

■4月6日■
1時40分に「子供は寝ている、これから金を持ってくる所を指定する」と小原保から連絡。約4時間後の5時30分に犯人から指定された上野駅の電話ボックスに母親が現金を持ち向かいますが、小原保は現れず。現金を持って帰るとのメモを残し、母親はその場から退散します。

それから約18時間後の23時12分に「電話ボックスに警察がいたから近寄れなかった」という趣旨の連絡があり、再度身代金の受け渡し場所の指示を待つこととなります。

身代金の受け渡しに成功したが吉展ちゃんは戻らず

■4月7日■
1時25分に「母親が一人で身代金を持て」と小原保から指示が入り、再び受け渡しへ。このときの指定場所は吉展ちゃんの家から300mしか離れていない近所の自動車販売店でした。その自動車販売店の軽三輪自動車が指定され、母親は現金をその場所へ。

犯人を刺激しないために警察は母親のそばには付いておらず、その車を警察が見張るまでに僅かなタイムラグが有りました。そのタイムラグを突いて小原保はまんまと身代金の奪取に成功します。

以降、犯人からの連絡は途絶えます。吉展ちゃんも戻ってきませんでした。

張り込み捜査員の1人は母親が50万円を置いた側にまわる途中、現場から歩いてくる背広姿の男に会ったが、気が急いていたため職務質問もしなかった。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%95%E3%81%A1... |

吉展ちゃん誘拐事件は暗礁に乗り上げる

身代金の受け渡しには成功したものの、小原保から返されることはなく、ご両親に再度抱きしめられることは叶わなかった吉展ちゃん。この後吉展ちゃん誘拐殺人事件は、2年もの捜査期間を経て解決する形となりました。この項は身代金受け渡し成功後の流れを見ていきましょう。

吉展ちゃん誘拐事件は公開捜査へ

■4月13日■
小原保が身代金奪取から成功して6日後、マスコミを通じて小原保に「吉展ちゃんを親に返してやってくれ」と警察が要求。しかし吉展ちゃんは戻ってくることはありませんでした

■4月19日■
小原保から連絡も吉展ちゃんの返還もなく、警察は公開捜査に切り替え。また4月4日に録音を成功した犯人からの電話音声も公開。1万件以上の情報が集まり、中には有力情報も存在しましたが、小原保の逮捕には到りませんでした。

■4月25日
脅迫電話の録音をテレビ・ラジオで公開し国民全員に協力を求める形に。情報は集まったものの、やはり小原保の逮捕には至りませんでした。

以降は積極的な動きは1965年までありませんでした。ここまでの時系列は1963年のものとなります。

吉展ちゃん誘拐殺人事件は2年の時を経て解決へ

こうして小原保からの連絡も途絶え解決の糸口さえ見つからなかった1963年。吉展ちゃん誘拐事件は2年経過した1965年に、解決する形となりました。この項では1965年に小原保が逮捕されるに至るまでの流れを見ていきましょう。

犯人の小原保は別件で逮捕されていた

犯人の小原保は別件で逮捕されていた
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人である小原保でですが、1963年に賽銭泥棒で執行猶予が付き、その期間中である同年に窃盗の罪で逮捕され、前橋刑務所に収容されていました。しかしこの時は誘拐犯でなく、ただの泥棒として服役しています。

吉展ちゃん誘拐殺人事件に関しても小原保は容疑者候補ではありましたが、アリバイを覆せる証拠がなく犯人と断定には遠い状態でした。

・小原は1963年3月27日から4月3日まで福島県に帰省していたと主張していたが、そのアリバイを覆せる証拠がなかった。
・事件直後に大金(20万円)を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
・脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。
・ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
・片足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%95%E3%81%A1... |

平塚八兵衛が捜査陣入り

捜査線上に上がっていたものの証拠が全く足りなかった故に逮捕には到っていなかった小原保。捜査は完全に行き詰まり警視庁は捜査陣を総入れ替え。吉展ちゃん誘拐殺人の解決に向けて、昭和の名刑事と言われた平塚八兵衛刑事を投入することとなりました。

平塚八兵衛刑事は録音されていた音声を聞いた後、捜査陣仲間とともにこの声は小原保で相違ないと確信を持ったそうです。

CHECK→平塚八兵衛

平塚 八兵衛(ひらつか はちべえ、1913年(大正2年)9月22日 - 1979年(昭和54年)10月30日)は、警視庁に在籍した刑事警察官。茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)出身。警察功労章、警察功績章受章。退職時の階級は警視。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E5%85%AB... |
「警視庁の至宝」とも呼ばれており、数々の事件解決を導いている、まさに昭和の名刑事です。3億円事件では結果的に誤認逮捕を引き起こしていますが、当まとめでは遠い話になるので割愛させて頂きます。

小原保のアリバイ崩しへ

小原保のアリバイ崩しへ
平塚八兵衛刑事の主導のもとに、徹底的に小原保はアリバイを洗われていきます。

小原保はありバイとして3月27日から4月3日まで地元の福島県に滞在していたという目撃証言がありましたが、平塚八兵衛刑事はアリバイ崩しに成功。4月1日に福島小原保を見たという証言があったのですが、実際はそれが3月28日と発覚したんです。

また小原保は3月29日に「福島の知人宅の土偶の鍵を壊し凍みもちを盗んで食べた」と証言していますが、この年はコメは不作で凍み餅はそもそも作られていませんでした。以上により小原保がアリバイに対し嘘をついていたことも発覚します。

小原保の目撃証言も集まる

小原保の目撃証言も集まる
更には懸命の捜査のもとで、小原保が3月30日と4月2日に事件現場近くで目撃されていたことが発覚し、身代金受け渡しから一週間後に、無職であるはずの大金を持っている姿が実弟を名乗る人物から公開捜査直後に情報提供をされています。

また、片足が不自由ですばやく動けないとされていましたが、小原保は意外なほどに機敏に動けたことも発覚しています。

小原保の証言の最後の矛盾

小原保の証言の最後の矛盾
アリバイを崩し絞り込んだものの小原保に対する取り調べは難航。ここまで調べ上げたアリバイや矛盾を突きつけても小原保は度々黙秘権を行使し、罪を認めることはありませんでした。

取り調べのための拘留期限もギリギリに迫っており、人権団体やマスコミが「人権侵害」を称して警察を叩き始めていました。

しかし1965年7月3日。最後の手段としてFBIに声紋照合をしてもらうために行われた雑談での一角。小原保は帰郷から東京に戻った4月3日に日暮里で火事を見たと証言。しかし実際は日暮里の大火事は4月2日に起こっており、小原保はこの大火を目撃することなんてできなかったはずなんです。

吉展ちゃんは無残な姿で発見へ

この発言の矛盾から平塚八兵衛刑事は一転攻勢へ。自らアリバイ調査に行って見ることとなった小原保の無実を信じている母親の様子を話し、遂に小原保は落ちることとなりました

ここまでは何も語らなかった小原保ですが、態度を別人のように改め、封じていた真相をすべて語ることとなります。

その後、自供により1965年7月5日、荒川区皆千住にある円通寺墓地から吉展ちゃんの白骨化している遺体が発見され、この事件は終わりを迎えました。吉展ちゃんは誘拐した夜に殺されていて、最初から小原保は吉展ちゃんを返すつもりはなかったんですね……。

小原保の詳細について

こうして後味の悪い結果となってしまった吉展ちゃん誘拐殺人事件。この項では犯人の小原保についてどんな人物であったかの生い立ちなどをまとめていきます。

小原保の生い立ちとは?

小原保の生い立ちとは?
小原保は1933年に福島県の石川郡石川町で誕生します。貧しい農家の11人兄弟の10番目と、時代を踏まえてもかなり兄弟が多い家庭環境でした。

小原保の特徴として片足が不自由というものがありますが、これは先天性ではなく後天性であり、小学5年、11歳の時にあかぎれが元で骨膜炎を発症。その時に後遺症として片足が不自由になったそうです。

中学卒業後は足の悪い自分でも座って仕事ができる時計職人に道を志し、1960年に上京。しかし内職で時計ブローカーをしていたことが発覚し63年で退職して以降は、ブローカーでお金を稼いだり、女性と同棲しヒモのような生活をしていたんだとか。

小原保の動機は何だったの?

しかしブローカー業も上手く行かずにいつしか小原保は収入以上の借金を抱えることに。貧乏な実家にもお金をかりることができず、東京でも野宿生活をすることとなりました。この時に小原保は以前見た映画「天国と地獄」を思い出し、子供を誘拐して金銭を要求することを思い立ちます。

つまり、動機は借金で首が回らずにお金に困っていたこととなります。

CHECK→天国と地獄とは?

ある日、製靴会社『ナショナル・シューズ』社の常務・権藤金吾の元に、「子供を攫った」という男からの電話が入る。そこに息子の純が現れ、いたずらと思っていると住み込み運転手である青木の息子・進一がいない。誘拐犯は子供を間違えたのだが、そのまま身代金3000万円を権藤に要求する。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%A8... |
誘拐を題材とした邦画となります。監督は黒澤明氏で数々の賞も受賞していますが、この映画の影響で、暫く誘拐事件が増えたとも言われていますね。

小原保は吉展ちゃんをなぜ殺したのか?

吉展ちゃんは計画的に誘拐したわけではなく、偶然に公園で縁があり「身なりが綺麗だったから金持ちだろう」と誘拐のターゲットに選ばれました。吉展ちゃんはこの時、遊んでいた水鉄砲を壊しており「直してやろうか」と小原保は接近。そのまま吉展ちゃんは小原保について行く形となりました。

しかし足を引きずって歩く小原保の姿を見て、吉展ちゃんは「おじちゃんは足が痛いの?」と言ったことから、このまま返せば家族に話されることを危惧。吉展ちゃんの殺害へと到りました。

吉展ちゃん誘拐殺人事件の裁判の行方

吉展ちゃん誘拐殺人事件の裁判の行方
平塚八兵衛刑事の尽力の結果、最終的には小原保の自白で幕を閉じた吉展ちゃん誘拐殺人事件。犯人である小原保は裁判で死刑を言い渡される形となりました。

弁護人が控訴をするも棄却が続き1967年10月13日に小原保の死刑が確定。その4年後の1971年12月23日に小原保は宮城刑務所で死刑が執行され、38年の人生に幕を閉じました。

小原保本人が人が変わったように全てを自供したこともあって、裁判で揉める要素はありませんでしたが、ここで死刑確定後の小原保の一つのエピソードを紹介します。

小原保は獄中で短歌に目覚めた

死刑確定後、先に見えている死を感じ小原保の精神状態は良い状態とは言えませんでした。その小原保を見て、教誨師は何か拠り所をもたせてあげねばと思い、小原保に短歌を勧めることとなります。

短歌を通して少しずつ落ち着きを見せ、小原保は教誨師を信頼するように。死刑が確定する直前まで創作活動を続け、偽名「福島誠一」を使いながら短歌を公に投稿することも。その短歌は朝日歌壇に選ばれたりするなどの一定の才能を感じさせるものでした。

死刑が執行されるまでに小原保が投稿した短歌は370首にものぼりました。

小原保が死刑直前に詠んだ短歌

小原保が死刑直前に詠んだ短歌

死刑前日に小原が詠んだ短歌は

・怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる
・世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木
・静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写るわが顔
・明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る

この4首である[23]。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%95%E3%81%A1... |

小原保の遺言と関係者の言葉

小原保の遺言は平塚八兵衛刑事に宛てた「真人間になって死んでいきます」だったそうです。

後に平塚八兵衛刑事は小原保の墓に訪れ、先祖代々の墓に入れられずにその横で埋葬されていたことを目撃。「胸をグッと突かれた」ような気持ちに襲われ、号泣したと言われています。

吉展ちゃん誘拐殺人事件の警察のずさんな対応とは?

吉展ちゃん誘拐殺人事件の警察のずさんな対応とは?
最終的に「警視庁の至宝」である平塚八兵衛刑事の力により事件は解決へと結びつきましたが、事件が起きた1963年の警察の対応は決して褒められるものではありませんでした。この項では警察の対応のまずさをまとめていきます。

身代金受け渡し時の大きな不手際

身代金受け渡し時の大きな不手際
当時5人の捜査員で受け渡し現場を包囲する予定でしたが、合図の勘違いで母親の運転する車は予定より早く出発し、捜査員たちは現場到着に約2分遅れました。この2分の隙を突いて小原保は身代金を奪取し持ち去ったと言われています。また、紙幣のナンバーも控えていませんでした。

しかもこの時に張り込みを担当した警部補は上長か「身代金を持っていく時は刑事を張り込ませない。人質を最優先にすること」と言われていたにも関わらず、張り込ませていた形でした。手柄と逮捕を優先するあまりに失敗してしまったと言う結果に。

犯人の特徴と小原保の乖離

犯人の特徴と小原保の乖離
警察は吉展ちゃん誘拐殺人事件の公開捜査の際に「東北なまりの40~50前後の男」と推定し音声公開に踏み切っています。しかし小原保は事件当時はまだ30代で、死刑が執行された時の1971年でもまだ38歳と非常に遠いものでした。更には福井県出身なので東北でもありません。

このことから「声の主が兄に似ている」という情報があったにもかかわらず、小原保は早々にシロと判断されてしまった経緯もあります。またこの事件は非常に世間の関心も高く、警察が当初発表した「40~50前後の男」の情報が独り歩きしていました。

また、報道協定を結んだことから、情報公開が遅れ結果的に捜査が長引いた部分もありました。

吉展ちゃん誘拐殺人事件の世間への影響

吉展ちゃん誘拐殺人事件の世間への影響
初の報道協定が結ばれた吉展ちゃん誘拐殺人事件でしたが、この事件が遺した影響は大きなものでした。この項では事件後にあった世間の動きについて、紹介していきます。

吉展ちゃん誘拐殺人事件を受けて法律が厳罰化

吉展ちゃん誘拐殺人事件を受けて法律が厳罰化
事件解決前の動きではありますが、吉展ちゃん誘拐殺人事件の解決が長所は失敗に終わったこともあり、1964年に営利誘拐に対し「身代金目的略取」の項が追加され、法律が厳罰化される形となりました。小原保の逮捕前に厳罰化しており、小原保の死刑が確定したのもこの厳罰化によるものが大きいです。

また、今ではおなじみとなっています犯罪捜査の電話の逆探知ですが、吉展ちゃん誘拐殺人事件がきっかけで認められるようになりました。

この事件を一つのきっかけとして、1964年、刑法の営利誘拐に「身代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰を科すよう改められた。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%95%E3%81%A1... |

事件を題材にしたドラマが制作へ

また結末こそ後味が悪いものの、2年を跨ぎ解決へと導かれた吉展ちゃん誘拐殺人事件は、その濃い内容からドラマ化もされています。その名も「戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件」とそのままであり、1979年の6月30日に土曜ワイド劇場で2時間ドラマとして放送されました。

戦後最大の規模で展開された、吉展ちゃん誘拐特別捜査の全貌を描く。事件の推移と、誘拐犯人・小原保の生い立ち、生活を掘下げ、また誘拐の手口、捜査のあり方などを克明に描き、二度とこうした惨事が起こらぬよう警告と自戒の意を含めたドラマである。「実在する如何なる特定の個人をも誹謗、糾弾しようとするものでない」という趣旨で作られている。

出典: https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=121801 |

誘拐も殺人も許されることではない

最後は心が浄化されたように「真人間」となった小原保ではありますが、客観的に見ても生活環境が安定していたとは言えず、少しは同情できる余地もあるでしょう。しかし自身の生活のために吉展ちゃんを誘拐し、保身のために殺害した事実は消えることはありません。

また、身代金を受け取った後も殺人までには及ばないものの窃盗を繰り返しており、少なくとも吉展ちゃんを殺したことに関しては、自供するまで反省していたとは思えない行動も続いています。

平塚八兵衛刑事の活躍や晩年の小原保の様子もあり美談とまとめられがちではありますが、今一度この事件で小原保が何をやったかを理解し、風化させないようにしていきましょう。

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