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【深川通り魔殺人事件の詳細】犯人・川俣軍司の生い立ちや現在も
2019年03月27日

【深川通り魔殺人事件の詳細】犯人・川俣軍司の生い立ちや現在も

1981(昭和56)年6月17日に東京都江東区にて、男が突然包丁で通行中だった親子3人を立て続けに殺害した。犯人、川俣軍司は覚せい剤を使用していた。世間を震撼させた、昭和最悪級の深川通り魔殺人事件について、犯人の生い立ちや詳細を徹底解説します。

死者4名「深川通り魔殺人事件」とは?

深川通り魔殺人事件とは、1981年6月17日午前11時35分頃、東京都江東区の商店街の路上で発生した無差別殺人事件です。

乳児1名児童1名を含む死者4名、負傷者2名を出した、悲惨なこの事件の犯人の名前は川俣軍司。事件当時29歳で求職中でした。

地元の買い物客でにぎわう商店街で起きた白昼の大惨事。この記事では、深川通り魔殺人事件の詳細や犯人、川俣軍司の生い立ち、この事件を元にした小説、ドラマなどの作品までを徹底解説します。

白昼、にぎやかな商店街での惨劇

深川通り魔殺人事件は東京都江東区森下二丁目の商店街で発生しました。

買い物や散歩目的の地元民でにぎわう、ちょうど正午前の商店街で、昭和の事件簿で最悪級の無差別殺人事件である深川通り魔殺人事件は突如として幕を開けてしまいます。

突然通行人に切りかかった川俣軍司

白昼、にぎやかな商店街での惨劇
人混みの中を歩いていた川俣軍司は突如走り出すと、赤ちゃんを乗せた乳母車を押し、幼子の手を引き歩く女性に柳葉包丁を振りかざし襲い掛かりました。

まず、乳母車に乗っていた長野博明ちゃん(当時1歳)の腹部を連続して2回突き刺した川俣軍司は、突然の男の凶行に悲鳴をあげ、逃げようとした母親の長野るみ子さん(当時27歳)の背後へも襲い掛かり、背中を2回突き刺します。

さらに母親と弟を当然襲われ、逃げることすらできず呆然と立っていた長野統子ちゃん(当時3歳)の胸部4か所をなんのためらいもなく滅多突きにし、最後に博明ちゃんの胸部を再度刺すという、執拗なまでのとどめを刺したのです。

なおも続く川俣軍司の凶行

白昼、にぎやかな商店街での惨劇
平和に歩いていた親子を突然襲った川俣軍司の凶行はなおも続きます。

たまたま買い物を終えて店を出た二本松美代子さん(当時33歳)は、目の前に広がった惨劇の跡を見て立ちすくんでしまいます。

それを見た川俣軍司はあっという間に二本松さんに走りよると、上腹部に包丁を突き刺して彼女も殺害しました。

そして、近くのバス停留所で下車してきた加藤貞子さん(当時77歳)にも突進するように襲い掛かり、大腿部を一回突き刺します。

さらに一連の騒ぎを聞きつけて店舗内から表に出てきた、吉野千鶴子さん(当時39歳)の腹部も突き刺し、両名に重傷を負わせるという、凶行を一瞬でしてのけたのです。

川俣軍司は人質と共に中華料理店へ立てこもった

一瞬のうちに悲鳴と逃げ惑う人々でごった返す商店街。

川俣軍司は、凶器の柳葉包丁の切っ先が5mmほど欠けていることに気が付くと(これ以上人を殺すことは難しい。)と考えました。

そして、たまたま通行中だった石塚真里さん(当時33歳)を、左腕で首をしめながら右手に持った包丁をのど元に突き付けておどし、近くの中華料理屋「萬來」に人質として引きずりこんだのです。

「萬來」は当時開店前で客はおらず、経営者一家がいましたが、川俣軍司が「てめえら出て行け!さもないと殺すぞ!」と叫んだため、裏口から脱出し、無事でした。

7時間もの警察の説得、しかし川俣軍司の反応は?

7時間もの警察の説得、しかし川俣軍司の反応は?
川俣軍司は人質にとった石塚さんに対して「オレはいま人殺しをしてきた、お前も逃げようとしたら殺すぞ」と脅迫し、包丁で首、肩、背中などを37か所も傷つけ、約7時間ものあいだ立てこもり続けます。

その間、警察の必死の説得は続きましたが、川俣軍司は「うるさくすると刺すぞ!何人殺しても同じだ!」と脅し、説得には全く応じなかったのです

電波で引っ付いている役人を連れてこい

また、川俣軍司は立てこもり中、人質の石塚さんに口述筆記で、

電波でひっついている役人の家族をすぐにつれて来い。次に書くすし店の夫婦を、全員つれて来い。銚子の水産会社の夫婦もつれて来い。半日以内に来なければ人質を殺す。おれがこういうことをしたのも、みんなひっついている役人が悪いからだ。電波でひっついているからだ。人が死んだのも、役人とグルになっておれを苦しめた、すし店と水産会社が悪いからだ。」

などと意味不明な言葉を書かせて警察によこしました。

この意味不明な言葉ですが、川俣軍司としては、仕事において彼をこれまでにクビにしたりした経営者や、その家族をこの事件現場を中継するテレビカメラの前に呼び出すことが目的でした。

呼び出し、彼らに責任を追及してやることで、彼らは大恥をかき信用をなくして店、あるいは会社が倒産すると考えての発言だったようです。

人質が隙をついて脱出、そして警察が突入

電波で引っ付いている役人を連れてこい
説得に応じることもなく、中華料理店に人質と立てこもって7時間が経過したとき、とうとう人質だった石塚さんが川俣軍司のわずかなスキをついて脱出に成功します。

警察はそのチャンスを逃さず一気に突入。川俣軍司は柳葉包丁を振り回して最後の抵抗を試みましたがあえなく取り押さえられ、逮捕に至りました。

犯人の連行時の姿が話題に

逮捕当時、下半身を露出させていたとされる川俣軍司は、白いブリーフをはかされ、口には自殺防止のために白いタオルをさるぐつわとしてかまされていました。

さらには被害者の血痕を残すことが目的で白いハイソックスをはかされた異様な姿で連行され、その姿が彼が起こした事件の凶悪性もともない、世間で大きな話題となり、注目を浴びました。


当時の衝撃は大変なものだったようで、深川通り魔殺人事件ときくと、川俣軍司がブリーフ姿で連行された姿を思い浮かべる人も多いようです。

また、「パンツ1丁で捕まったあの犯人・・・」といえば、この深川通り魔殺人事件を思い出す人も多いのではないでしょうか?

なぜ川俣軍司は凶行に至ったのか?

なぜ川俣軍司は凶行に至ったのか?
そもそもなぜ、川俣軍司は4人死傷の深川通り魔殺人事件という凶行に至ったのでしょうか?

たまたまそこを歩いていたというだけで、恨みもなにもない見知らぬ人をなんのためらいなく包丁でめった刺しにする行為、また、人質に書かせて警察によこした異様な文章からも、精神状態が尋常ではなかったことが分かります。

寿司屋の面接に落ちた腹いせと供述

寿司屋の面接に落ちた腹いせと供述
警察の取り調べに対して、犯行の動機は「寿司屋の面接に落ちたのでカッとなって次々に(人を)襲った。」と供述した川俣軍司でしたが、その他にも、

おれには電波がひっついているので、黒幕をあばく目的で人質を取った。」

「子どもを持つヤツらが羨ましく、手当たりしだいうっぷんを晴らしてやった。死んだ人に気の毒とは思わない。子どもの父親が来たら、いつでも会って怨みを晴らさせてやる。おれの腹を刺せばいんだ」

「死んだ人間は、これも運命だ。おれはサムライだから、殺された人たちも幸せだろう。刺したときは気分がスッとして、うまく殺せたと思う」

などとここでも意味不明な言葉を繰り返しました。

川俣軍司は覚せい剤を使用していた

川俣軍司は覚せい剤を使用していた
取り調べ中に川俣軍司は「去年の七月に道交法違反で捕まるまでは覚せい剤をやっていた。
今は使っていないから、おれは正常だ。今度のことは真剣な気持ちでやったんだ」とも供述しており、逮捕当日から4回の尿検査では覚せい剤使用の反応が出ました。

しかし、供述にあった「去年の7月に捕まるまでは覚せい剤をやっていた。今は使っていない」というのはでたらめで、実際は逮捕後の検査の結果にもあった通り、深川通り魔殺人事件の直近の時期にも覚せい剤を使用していたのです。

犯人の川俣軍司の人物像

覚せい剤におぼれ、精神に異常をきたして29歳で深川通り魔殺人事件という凶行におよんだ川俣軍司。彼が、なぜ覚せい剤を使い4人もの命を奪って逮捕されることとなったのか。そんな彼の生い立ちを見てみましょう。

劣悪な環境で育った幼少時代

川俣軍司は1952年2月21日に茨城県鹿島郡波崎町太田に生まれました。

父親はしじみ採りを専門とする仕事をしていましたが、川俣軍司が生まれたときは経営状態は最悪で、母乳が足りない状態でかつミルクも買えなかったため川俣軍司は重湯で育てられたのです。

引っ込みがちな性格だった

引っ込みがちな性格だった
幼少、学生時代の川俣軍司はどちらかというと大人しい発言の少ない子供で、他の子供に話しかけられてもただうっすらと笑いを返すだけで友達はあまりいませんでした。

成績も、5段階評価のうちほとんどが「2」でたまに「3」が混ざる程度であまり良いとはいえない成績だったようです。

中学校では園芸部に所属していて「ニタリスト」というあだ名がついていました。

これは川俣軍司が常にニタニタと笑っていたことが由来で、先生にそのニタニタ笑いを注意されたときは言い返したりせず、ただ教室でいつまでも泣いたそうで、自分の意見を主張しないタイプの性格だったことが分かります。

一人前の職人を夢見て上京するが…

一人前の職人を夢見て上京するが…
中学を卒業後は進学をすすめる親に対して、「父ちゃんだけがこんなに困っているのに自分だけ上の学校に行くわけにはいがねぇ。」と軍司は進学をやめました。

また「俺は学問するより、手に職をつけたい。東京へ出て、板前になる。」とここで上京を決意しました。

上京したあと軍司は、築地の寿司屋に住み込みで働くことになります。目立った腕前ではありませんでしたが、「軍ちゃん」と呼ばれると「はい。」と素直に返事をしたり、特に問題なく勤めていたようです。

ところが、働き始めて3年半が経つ頃、この半年前から働き始めた軍司と同い年の後輩と性格が合わず、退職してしまうのでした。

次に勤めた寿司店でも、憧れで入れた刺青と、酒に酔うとたちが悪くなる性格が原因で度々問題を起こしわずか3か月で解雇になってしまいます。

職を転々としだすように

刺青が原因で解雇されてから、東京内の寿司屋を転々としますがどこでも長続きはせず、数日で解雇されてしまったこともありました。

1971年、19歳になった川俣軍司は実家へ戻り、地元の寿司店で働きながら免許を取得します。免許を取った軍司は寿司屋を辞め、トラックの運転手になりますがこれも長続きはせず、再び東京へ出ると土建会社で働き始めました。

この頃から、酒に酔って事件を起こすことが増えてきます。

次々と事件を起こし刑務所生活が続いた

一人前の職人を夢見て上京するが…
1971年6月6日、19歳で台東区の浅草で通行人をおどして現金をうばったとして、恐喝罪で懲役2年、執行猶予3年の判決を受けます。

1972年には2度の事件を起こし、9月29日富阪で暴行傷害事件を起こした軍司は、懲役10か月の判決、さらに前年の未成年時に浅草で起こした事件の執行猶予が取り消され2年10か月を川越少年刑務所で服役することになります。

1975年出所するも、翌年も飲み屋で酔って暴れたために逮捕、懲役10か月の判決がくだりました。

親が差し伸べた最後の助けの手も振り払う

親が差し伸べた最後の助けの手も振り払う
1977年、再度刑務所を出所した川俣軍司は、父親の申し出でしじみ採りの稼業を継ぐことを決めます

しかし、仕事中や家でちょっとでも気に食わないことがあると両親に暴言を吐き、時に暴れて手が付けられない状態が続きました。

耐えかねた両親は実家近くに住んでいた長男宅に逃げ出してしまいます。軍司ひとりではしじみ採りはできないため、弟が手伝うこととなったのです。

覚せい剤におぼれ、兄弟からも見放される

覚せい剤におぼれ、兄弟からも見放される
1978年ごろから金まわりがよくなり、飲み歩くようになった軍司は波崎や銚子のヤクザと知り合いとうとう、覚せい剤に手を出し始めます。

この頃、馴染みのホステスに夫がいたことに激怒して包丁で切りかかり、けがを負わせたとしてまたもや懲役1年の判決。

出所後も職を転々とし1980年、職業安定所の紹介で銚子市の水産会社に入社しますが2か月たらずで退社します。

次も職業安定所の紹介で運送会社に勤めますが、「俺には黒幕がついているんだ。」などヤクザまがいの口調で顧客を脅すなどして解雇されてしまいます。

母親の葬式で弟と衝突

1980年、7月13日に飲酒運転で人身事故を起こして拘留され判決を待っていた川俣軍司でしたが、8月17日に子宮がんを患っていた母親が死亡したため拘留がとかれ、葬儀のために実家へ戻ります。

しかし、そこで「坊主が俺にケンカを売った」「(お坊さんが)おっかあ(母親)の悪口を言って大笑いした。」などとありもしないことをわめきたて、「そんなはずはない。」ととがめた弟とつかみ合いのケンカとなってしまいます。

酒に酔っているわけではないのに、意味不明な言葉を繰り返す川俣軍司にその場の誰もが薬(覚せい剤)の使用を疑いの目を向けました。

その後、この騒動でまたもや懲役7か月の判決が下ることとなります。

とうとう深川通り魔殺人事件が起こってしまう

とうとう深川通り魔殺人事件が起こってしまう
母親の葬式での騒動の服役から出所後、実家に電話をかけますが父親はとうとう取り合ってはくれず、川俣軍司は兄に電話をかけました。

しかし、電話口で「電波、テープにひっつかれた。黒幕に麻酔を注射されて殺される。その前に舌を噛み切って死んでやる」などと意味不明な言葉を発し、兄から3万8千円の援助を受ける代わりに家には戻らないことを約束させられてしまいます。

その後、都内の寿司屋を次々に勤めては解雇されますが、その中のいくつかの店で軍司は意味不明な言葉をしゃべる、禁断症状により突然苦しみだすなど、覚せい剤の影響による普通じゃない振る舞いを何度もしています。

そしてとうとう、1981年6月17日、公衆電話で寿司屋に面接の結果を問い合わせたところ不採用が分かった川俣軍司は深川通り魔殺人事件という凶行におよんだのです。

犯人の祖父と被害者の数奇な運命

犯人の祖父と被害者の数奇な運命
実は、深川通り魔殺人事件の犯人である川俣軍司の祖父は覚せい剤使用者によって殺害されています。

そしてなんと驚くことに、川俣軍司の祖父を刺殺した犯人は、深川通り魔殺人事件の最初の犠牲者となった長野るみ子さんの祖父だったのです。

覚せい剤使用者に殺害された被害者の孫が、その犯人の孫を殺害。それも、覚せい剤を使用しながら・・・。

深川通り魔殺人事件には言葉では言い表せない、不思議な因縁関係がからんでいたのです。

深川通り魔殺人事件のその後は

深川通り魔殺人事件のその後は

深川通り魔殺人事件、下った判決は無期懲役

30回にもおよぶ裁判の末、深川通り魔殺人事件の犯人、川俣軍司に下った判決は無期懲役

その理由は「犯行当時心神耗弱状態だったため」で、4人もの命が奪われた凶悪事件である深川通り魔殺人事件に対してこの判決は人々を驚かせました。


犯人の川俣軍司は現在も刑務所内で服役していますが、4人もの尊い命を奪っておきながら死刑判決が下らなかったことに怒りを覚える人は多くいます。

深川通り魔殺人事件が元となった作品について

深川通り魔殺人事件が元となった作品について

ノンフィクション小説が発行された

深川通り魔殺人事件は作家佐木隆三さんによって、ノンフィクション小説として発行もされました。
事件の詳細から、川俣軍司の生い立ちまで詳細が記されています。

テレビドラマも放映

深川通り魔殺人事件は大地康雄さん主演でドラマ化もされました。

大地康雄さんは当時「衝動殺人 息子よ」という作品で殺人犯を演じており、ドラマ「深川通り魔殺人事件」の監督がそれを見ていたということで、犯人・川俣軍司役にはすでにプロの俳優20人がオーディションを受けて全員落ちていたのにかかわらず、大地康雄さんが大抜擢されました。

そしてその期待は裏切られず、大地康雄さんの迫真の演技は人々に衝撃をあたえ、視聴率26%という驚異的な数字をたたき出したのです。

さらにあまりに真に迫った演技だったため「本物(川俣軍司)が出演しているのではないか?」とテレビ局に問い合わせがきたそうです。


大地康雄さんの渾身の演技に絶賛する声は、放送当時はもちろん今でも作品が再放送されるたびに上がっています。

深川通り魔殺人事件は恐ろしく二度と起こって欲しくない事件ですが、このドラマは覚せい剤の恐ろしさを知らしめた事件として、覚せい剤やドラッグに引き込まれやすい若い世代の人に教訓としてぜひ見て欲しい作品です。

深川通り魔殺人事件は芸能人にも影響を与えた

人気番組の笑点に出演している三遊亭小遊三さんは、よく世間を騒がせている事件をネタにしますが、そもそもこの芸は、この深川通り魔殺人事件の犯人である川俣軍司と顔が似ていたからというきっかけで生まれたネタだそうです。


覚せい剤の恐ろしさを知らしめた深川通り魔殺人事件

覚せい剤の恐ろしさを知らしめた深川通り魔殺人事件
今回は深川通り魔殺人事件について、事件の概要から犯人の生い立ちまでを徹底的に洗い出しました。

身勝手な理由で深川通り魔殺人事件という凶悪事件を起こし、4人もの命をうばった川俣軍司。彼は無期懲役の判決により、事件から30年近くたった今も刑務所の中で過ごしています。

彼をそこまで狂わせた覚せい剤をはじめ、違法薬物はとても恐ろしいものです

しかし、それらは以外にも身近に潜んでいるのです。そして、時にそれは「楽しい気分になる。」「ダイエットできる。」など甘い言葉で誘惑してきます。

あなたはもちろん、家族、友人を含め違法薬物には決して手を出すことのないように気を付けましょう。

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