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あさま山荘事件の詳細や犯人を解説!永田洋子・連合赤軍とは?
2019年03月25日

あさま山荘事件の詳細や犯人を解説!永田洋子・連合赤軍とは?

1972年2月19日、連合赤軍のメンバーが長野県のあさま山荘に、管理人の妻を人質に立てこもるというあさま山荘事件が起こりました。今回は10日間に渡る警察との攻防や、連合赤軍の実態、連合赤軍が起こした壮絶なリンチ殺人と首謀者の永田洋子の実像に迫ります。

あさま山荘事件の詳細とは?

あさま山荘事件とは、1972年、長野県の軽井沢町にあるあさま山荘に、5人の連合赤軍メンバーが立てこもり、10日に渡って警察と攻防を繰り広げた事件です。

今回はあさま山荘事件の始まりから、犯人たちが逮捕されるまでを追ってみます。

5人の連合赤軍

1972年2月、群馬県の山中に、銃で武装した5人の男たちが現われます。

5人の男たちの正体は連合赤軍と呼ばれる新左翼組織のメンバーで、警察の追っ手を逃れ、山を越えて隣の長野県に逃げ込もうとしていました

5人の名前は、連合赤軍ナンバー3で5人のリーダーにあたる坂口弘、連合赤軍のナンバー5坂東國男、同じく連合赤軍の吉野雅邦、そして当時はまだ未成年だった加藤倫教、加藤元久の兄弟です。

あさま山荘へ

あさま山荘へ
長野県へ脱出しようと考えた坂口弘たち5人ですが、途中で道に迷い、さらには悪天候にも阻まれて行き場を失います。

どうにか軽井沢まで到着した5人でしたが、そこで警察に包囲され銃撃戦となります。そして銃を乱射しながら逃亡した5人の眼前に現われたのがあさま山荘でした。

あさま山荘ってどんな場所?

長野県の軽井沢町と言えば、古くから別荘地として有名な場所です。元ビートルズのジョン・レノンも軽井沢がお気に入りで、家族でよく訪れていたほどです。

あさま山荘は河合楽器健康保険組合の所有で、正式には「軽井沢保養所浅間山荘」と言いました。賑わいを見せる軽井沢駅からは南へ車で10分程、切り立った崖の上に建ち、周囲を見下ろせるような造りになっています。

気になるあさま山荘の現在ですが、あさま山荘事件で破壊された建物は再建されましたが、今は所有者が変わって、中国系の企業が所有しています

あさま山荘へのたてこもり

坂口弘たちが押し入った時、あさま山荘では管理人の妻が1人で留守を守っていました。坂口弘たちは逃亡計画を練りますが、どれも難しいことを悟り、管理人の妻を人質にあさま山荘に立てこもることを決意します。

一方の警察側は、この時点でまだ十分な人手が揃っておろず、さらに人質を取られていたことで突入にも踏み切れずにいる状態でした。

その間に坂口弘たちは、警官隊が突入してきそうな場所にバリケードを築き、着々と籠城作戦の準備を整えていったのです。

母親たちの説得

あさま山荘内には十分な食料が用意されており、坂口弘たちも警察とは徹底抗戦の構えを崩しませんでした。

そこで警察はまず、犯人たちの親や親族を現場に呼び寄せ、説得工作を行うことにしました。呼ばれたのは坂口弘、坂東國男、吉野雅邦の母親たちで、銃弾から保護するため装甲車の中から5人の説得にあたります。

しかし犯人たちがこの説得に耳を傾けることはなく、銃声もやむことがありませんでした。

鉄球作戦開始

母親たちの説得と並行して、催涙ガス、電気の供給ストップ、夜間の騒音など、警察側は犯人を精神的に追い詰める作戦を行っていました。

しかし坂口弘たちが一向に投降する様子を見せないため、クレーンにつるした鉄球であさま山荘を破壊して、中に踏み込んだ警官隊による制圧作戦に打って出ることを決めます。

クレーンを捜査するのは民間の作業員です。しかもクレーン車は普通の現場作業用のため、もし犯人に銃撃されれば弾は車体を貫通して、作業員の命にもかかわる危険な仕事でした。

しかしこの作戦は途中でクレーン車が故障し、十分にあさま山荘を破壊できなかったため失敗に終わってしまいました

警察との攻防

警察との攻防
警察は投降を呼びかけたり、犯人たちを精神的に追い詰める作戦に終始し、発砲されても決して撃ち返すことはありませんでした

なぜなら警察上層部の判断は、犯人たちを生け捕りにすることにあったからです。その理由としては射殺して犯人たちを殉職者にしないことに加えて、世間から非難されることを恐れたためでした。

殉職者たちの無念

銃を携行していたにもかかわらず発砲許可が下りないため、丸腰と変わらない状況で、警官隊たちは5人の連合赤軍と対峙しなければなりませんでした。

そんな中、最初の殉職者が出てしまいます。警視庁の高見繁光警部です。高見繁光警部は鉄球作戦や高圧放水での現場制圧作戦の指揮官として、部隊の先頭に立っていました。2月28日午前11時27分、頭部に被弾を受け、数時間後に亡くなりました。

高見繁光警部殉職の悲報からおよそ20分後、今度は高見繁光警部が頭部へ銃弾を受けて帰らぬ人となりました。

2人が撃たれた時の模様は、生放送で全国に放送されていました。

民間人も犠牲に

あまり知られていませんが、あさま山荘事件では民間人の男性も1人犠牲になっています。

この男性は人質の身代わりを申し出てあさま山荘に近づいたところ、坂口弘に撃たれて死亡しました。

機動隊突入!

あさま山荘事件が始まって10日目の2月28日、警察側はついに強行突入を決定します。

28日朝、警察はまず投降を勧告します。9時55分に最後通牒をし、機動隊は突入を開始しました。

しかしこの突入作戦のさなか、前述の高見繁光警部、内田尚孝警視が殉職し、現場は騒然となっていきます。

突入作戦の途中から、ようやく銃の発砲許可は下りたものの大混乱の現場ではうまく伝わらず、多くの警察官は最後まで銃を抜くことなく、突入作戦に臨んでいました。

午後になって再び突入作戦を開始した警官隊は、またも多数の負傷者を出しますが、18時10分頃、ベッドルームに籠城していた5人の連合赤軍メンバーの元に警官隊が突入して、犯人の一斉検挙に成功したのでした。

あさま山荘事件を起こすまでの犯人たちの足取りは?

あさま山荘事件が長期化した理由の一つに、あさま山荘の地形的特質があります。崖の上に建つあさま山荘は、籠城作戦を取った連合赤軍側に圧倒的に有利だったのです。

それでは連合赤軍側は、初めからあさま山荘事件を起こすつもりでこの場所にやってきたのでしょうか?そもそもどんな目的であさま山荘に籠城したのでしょうか?

ここからは、連合赤軍があさま山荘事件を起こすまでの道のりを振り返ってみます。

連合赤軍とは何者なのか?

連合赤軍について説明する前に、まずはその元となった学生運動と新左翼組織について説明します。

学生運動とは?

日本の学生運動の歴史は古く、明治時代から大学運営の改善などを求めて学生たちは活動していました。そこへマルクス主義に代表されるような社会主義思想が結びつき、労働者の環境改善、権利取得、農村の解放といった運動へと広がりを見せていきます。

ただしこの頃の学生運動は武力を伴うものではなく、あくまで理論で闘うことが重要視されていました。

新左翼の誕生

大きな変化が訪れたのは戦後になってからのことです。学生たちで組織されていた学生運動のグループは全日本学生自治会総連合、通称全学連と呼ばれ、日本共産党の影響下にありました

その関係が決裂したのは1955年のことした。突如日本共産党が活動方針の大幅転換を掲げ、その方針と相いれない学生たちを排除していったのです。

排除された学生たちは新左翼共産主義者同盟、通称ブントを結成し、より過激で暴力的な活動へと舵を切り始めます。

新左翼組織の分裂

ブントの活動が広く世間に知れ渡ったのは、1960年代、アメリカと結ばれることになった日米安全保障条約の締結を巡る一連の過激行動によるものでした。

この行動は安保闘争と呼ばれ、東大生だった樺 美智子の死によって、世間でも大きな議論を巻き起こすことになります。

しかしその後安保闘争自体は下火となり、闘争の相手を見失ったブントは徐々に内輪もめに明け暮れるようになり、幾つもの新左翼派組織に分裂して活動を始めることになりました。

連合赤軍の誕生

1960年代半ばに入って、再び学生運動の機運が高まってきます。

街にはヘルメットを被りゲバルト棒を握りしめた学生たちが出没し、東大の安田講堂立てこもり事件、国際反戦デーにおける市街戦、成田空港開港に反対する三里塚闘争など過激化の一途を辿っていきました。

しかし1970年代に入ると、またしても学生運動は下火となり、警察による取り締まりの強化などもあって、多くの新左翼組織は壊滅状態となっていきます。

この時かろうじて生き残っていた二つの組織、共産主義者同盟(赤軍派)と京浜安保共闘(革命左派)の一部のメンバーが結びついて、連合赤軍を結成するのです。

共産主義者同盟赤軍派

連合赤軍の元となった二つの組織のうち、共産主義者同盟赤軍派(以下赤軍派)は塩見孝也を最高指導者として結成されます。

その思想は過激で、暴力による革命を主張していました。

結成当初こそ党員は400人近くにも上りましたが、度重なる組織の分裂や、塩見孝也を含む最高幹部たちが次々と逮捕されたことで、存続の危機に陥っていました。

京浜安保共闘

連合赤軍の母体となったもう一つの組織、京浜安保共闘(以下革命左派)には、後に山岳ベースリンチ殺人事件の首謀者として逮捕される永田洋子、あさま山荘事件を起こしたメンバー坂口弘などがいました。

過激思想を掲げる新左翼組織が多い中、珍しくその活動方針は穏健なものでしたが、赤軍派と同じく、革命左派も最高指導者の川島豪を筆頭に幹部を逮捕され、弱体の一途を辿っていたのです。

あさま山荘事件が起こるまで

学生運動も下火となり、幹部たちの大量検挙もあって、赤軍派と革命左派の二つの組織は生き残りをかけて、様々な活動を行っていきます。

続いては、二つの組織が連合赤軍となり、あさま山荘事件を起こすまでの間に、世間を騒がせた事件をご紹介します。

大菩薩峠事件(赤軍派)

1969年11月5日に、赤軍派は現在の山梨県甲州市の山小屋『福ちゃん荘』に潜伏していたところを逮捕されます。

赤軍派の目的は、首相官邸や警視庁を武力で襲い、刑務所にいる仲間たちを奪還する作戦を実行に移すことでした。

しかし計画は事前に察知されており、突入した機動隊員らによって53名が逮捕されます。さらにその後の捜査で、最高指導者の塩見孝也を含む幹部メンバーも逮捕され、組織はガタガタとなっていくのです。

この時現場となった『福ちゃん荘』はまだ営業を続けています。

よど号ハイジャック事件(赤軍派)

よど号ハイジャック事件(赤軍派)
続く1970年3月31日、またも赤軍派によるよど号ハイジャック事件が起こります。このハイジャック事件は、日本で初めてのハイジャック事件としても有名です。

羽田空港発福岡空港行きのJAL351便(愛称よど号)をハイジャックしたのは、田宮高麿をリーダーとする9人組で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ飛行機を着陸させるよう要求します。

数日の膠着期間を経て、4月5日によど号は赤軍派の要求通り北朝鮮の空港に着陸し、田宮高麿ら9人は北朝鮮への亡命に成功しました。

真岡銃砲店襲撃事件(革命左派)

1971年2月17日に、栃木県の銃砲店を革命左派のメンバーが襲撃し、多数の銃や弾丸を奪います。

革命左派が銃砲店を襲撃した理由は、既に逮捕されていた最高指導の川島豪を奪い返すためでした。

なお、この時奪われた散弾銃や銃弾などは、後のあさま山荘事件で使われることになるのです。

印旛沼事件(革命左派)

印旛沼事件は1971年に革命左派が起こした、仲間を粛清した事件です。

革命左派はこの当時、永田洋子の主導によって、従来の爆弾を使った闘争から、銃による闘争へと大きく方針転換をしていました。

やがて山岳ベースと呼ばれる山間の隠れ家で、射撃などを含む戦闘訓練を行うようになります。しかしここを脱走した2人のメンバーが、警察に密告するのではないかと疑心暗鬼に駆られ、革命左派幹部の永田洋子と坂口弘2人を処刑することに決めたのです。

殺害されたメンバーは山中に埋められ、あさま山荘事件が起きるまで事件が発覚することはありませんでした。

両者を結び付けた川島豪とは?

印旛沼事件の頃には、革命左派と赤軍派は共闘関係にあるだけでしたが、この二つを正式に結び付け、一つの組織とするよう働きかけた人物がいます。

革命左派の指導者であり、当時獄中にいた川島豪です。川島豪は強固な武装闘争肯定派であり、獄中にいながらも、獄外にいる永田洋子や坂口弘などの革命左派幹部に絶大な影響力を誇示していました。

川島豪によって連合左派と赤軍派は一つの組織となり、後に連合赤軍と名乗るようにようになります。

なお川島豪は後年、連合赤軍が起こした一連の事件に対し、自分には責任がないといった発言をしています。

あさま山荘事件の序章となった山岳ベース事件

1971年、連合赤軍としてあらたな活動を開始した革命左派と赤軍派ですが、その関係は決して良好なものとは言えませんでした。

ここでは亀裂を深めていく革命左派と赤軍派が、次第に対立を深め、ついには総括という名の仲間内のリンチ殺人を行うようになるまでを掘り下げていきます。

凄惨なリンチ殺人事件の全容とは?

凄惨なリンチ殺人事件の全容とは?
時間をあさま山荘事件が起こる少し前に巻き戻してみます。

幹部が大量検挙され、外で活動するメンバーも指名手配により、都市部での活動がほぼ不可能となっていた革命左派は、山奥深くに山岳ベースと呼ばれるアジトを持っていました。

また革命左派内部では、合法的な活動を行う合法部と、革命のためなら非合法な活動も厭わない非合法部との対立が決定時となり、ついに非合法部は合法部との決別を決めます。

そして赤軍派との新結成に向けての話し合いのため、両方のメンバーは革命左派の山岳ベースの一つ榛名ベースに集結するのです。

榛名ベースでの総括の始まり

総括とは?

当時行われた総括がどのようなものだったかを振り返る前に、そもそも総括とはどういうものか、Wikipediaから引用します。

総括(そうかつ)とは、本来は全体を取り纏める事であり、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられていたものである。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%8B%AC_(%E9%80%... |
つまり総括自体はなんら異常なものではなく、本来は暴力やましてリンチ殺人などに発展する類のものではないことが、おわかりいただけたのではないでしょうか。

それではなぜ、山岳ベース事件では凄惨なリンチ殺人にまで行きついてしまったのでしょうか?次はその原因についてまとめてみます。

森恒夫と永田洋子の結託

榛名ベース以前から、赤軍派と革命左派のメンバーたちは、些細なことで互いを総括しあい、主導権争いを激化させていました。

しかし途中から、赤軍派のリーダー森恒夫の理念に革命左派のリーダー永田洋子が共鳴し、ここに来て手を結びます。

これにより連合赤軍内の序列も、森恒夫がリーダー、ナンバー2が永田洋子となり、総括はこの2人が主導して行われるようになっていきます。

この時榛名ベースには、女性名を含むのべ29名のメンバーが集まり、そのうち12名が後に死亡したことが明らかとなります。中には妊婦だったメンバーも含まれており、彼女はあさま山荘事件の犯人の1人吉野雅邦の妻でした。

連合赤軍山岳リンチ被害者
◆尾崎充男(享年22)東京水産大学 
  「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永田に問題視され殺害された
◆進藤隆三郎(享年22)秋田高卒
  ハンサムな男で、女性をオルグする役割を持ったが森と永田から「遅れている」と暴行を受け死亡
◆小嶋和子 (享年22)市邨学園短大
  恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ怒りを買う。死亡
◆加藤能敬(享年22)和光大学
  小嶋和子とキスしているところを永田に見られ死亡   
  浅間山荘で篭城、逮捕された加藤倫教、加藤元久は彼の弟達
◆遠山美枝子(享年25)明治大学
  髪を伸ばしていること、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどで永田からうらみ買う
◆行方正時(享年22)岡山大学
  坊ちゃん育ちのため、森と永田に目をつけられた
◆寺岡恒一(享年24)横浜国立大学
  「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる」「俺は初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。
   お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と発言したことで永田から粛清される
◆山崎順(享年21)早稲田大学
  森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、組織から脱落しよう」としたとされ、死刑を宣告された
◆山本順一(享年28)北九州大学卒
  2ヶ月だった長女頼良(ライラ)ちゃんは愛知県の父親が引き取り育てた。現在40歳、子供が3人
◆大槻節子(享年24)横浜国立大学
  かなりの美人だったが、暴行を受け永田に髪を刈られて殺される
◆金子みちよ(享年24)横浜国立大学
  永田の嫉妬から妊娠8ヶ月で殺害される
◆山田孝(享年27)京都大学
  森とはうまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられ死亡

出典: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/natsutv/1100681165/... |

連合赤軍幹部永田洋子とは何者なのか?

赤軍派のリーダー森恒夫を崇拝し、山岳ベースでのリンチ殺人においても主導的役割を果たした永田洋子とはどんな人物だったのでしょうか?

永田洋子の生い立ちから、やがて連合赤軍幹部になるまでを簡単にご紹介します。

幹部になったのは棚ぼた?

1945年2月8日生まれの永田洋子は、現在の慶應義塾大学薬学部に進学しますが、在学中に社会主義思想に目覚め、卒業後は川島豪率いる「警鐘」という組織に加わり、活動を本格化していきます。

成田空港建設に反対し、三里塚闘争に加わって活躍するなどし、「京浜安保のおんな3戦士」の1人としても脚光を浴びますが、意外にも周囲の評価はさほど高くありませんでした。

しかし警察の取締りによって幹部がこぞって逮捕される中、他に有力なメンバーもいない状況で、永田洋子が事実上のリーダーとなって革命左派を率いることになります。

山岳ベース事件は永田洋子の嫉妬が原因?

永田洋子は生来病弱で、実はバセドウ病も患っていました。そのせいで子供を産めない体になったことが、とりわけ女性メンバーへのリンチにつながったという見方もあります。

しかし私生活では、あさま山荘事件の犯人の1人、坂口弘と内縁関係にあり、妊娠の経験もあることから、子供を産めない体というのは真実ではありません。

それでもネット上では、容姿の恵まれた女性メンバーや妊婦をやり玉に上げた原因として、永田洋子の嫉妬によるものだという見方をする意見が見られます。

そしてあさま山荘事件は起こった!

そしてあさま山荘事件は起こった!
山岳ベースで仲間を総括という名のリンチにかけ殺害した連合赤軍メンバーが、どうしてあさま山荘事件を起こすことになったのでしょうか?

ここからはあさま山荘事件の犯人たちが、どのようにしてあさま山荘に立てこもることになったのか、その道のりを解説していきます。

迫りくる警察の包囲網

迫りくる警察の包囲網
山岳ベースで陰惨なリンチ殺人が行われている間も、警察の包囲網は確実に連合赤軍を追い詰めていました。

永田洋子をはじめ、森恒夫、坂口弘ら連合赤軍メンバーは群馬県内の山中に身を潜め、警察からの追っ手をかわそうと試みます。

しかし大規模な山狩りによって、ついには榛名ベースが発見され、いよいよ追い詰められたメンバーは、山を越えて隣の長野県に逃げることにします。

なおこの脱出作戦は、永田洋子と森恒夫が活動資金を調達するために山を下りていたため、永田洋子の元内縁の夫で、連合赤軍のナンバー3であった坂口弘がリーダーとなって進められました。

これがあさま山荘事件へと繋がるわけです。

警察犬アルフ・フォン・ムト・ハイム号の活躍

連合赤軍を逮捕するため、大規模な山狩りを行っていた警察に、一頭の非常に頼もしい助っ人がいたことを忘れてはいけません。

警察犬アルフ・フォン・ムト・ハイム号、通称アルフ号です。アルフ号は雄のジャーマン・シェパードで大変優れた嗅覚の持ち主でした。

先に紹介した真岡銃砲店襲撃事件でアルフ号は、その得意の嗅覚で見事に逃亡犯2人を見つけ出し、警視総監じきじきに表彰されました。

また、連合赤軍のメンバーが潜んでいるとされた妙義山山中では、雪の中に埋められていた多数の武器や、遺留品を発見し、二度目の警視総監賞などをもらいました。

あさま山荘事件でも出動が予定されていましたが、実現されることはありませんでした。

あさま山荘事件以降

あさま山荘事件では2月19日から2月28日にかけて警察と攻防を繰り広げた連合赤軍ですが、逮捕されるおよそ10日ほど前の2月17日、永田洋子と森恒夫は逮捕されており、山岳ベース事件も明るみとなったことで、連合赤軍は事実上の壊滅状態となりました。

しかし本当に連合赤軍は壊滅してしまったのでしょうか?ここからはその後の連合赤軍と、新たに生まれた日本赤軍についてまとめてみました。

日本赤軍の誕生

日本赤軍が結成されたのは、あさま山荘事件のおよそ1年前、1971年2月26日のことです。

元赤軍派だった重信房子を指導者とし、日本国内で過激な闘争を繰り広げた連合赤軍に対し、日本赤軍は海外での活動を目的として結成されました。

これはよど号ハイジャック事件の時と同様、海外にも活動の拠点を置いて闘うべきだという、国際根拠地論に基づくものでした。

レバノンやパレスチナに拠点を置き、現地の過激派と結びついた日本赤軍メンバーは、のちに日本赤軍事件と呼ばれることになる数々のテロ事件を起こしていきます。

前段階武装蜂起論に基づくPBM作戦が事実上頓挫したことで、新たに唱え出した理論で、先進国の階級闘争と第三世界の民族解放闘争と「労働者国家」の官僚独裁制打倒を同時並行で行い、世界革命を実現させるという壮大な理論である。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%A0%B9... |

重信房子

1945年9月28日、重信房子は東京都に生まれ、明治大学の夜学に進みます。そこで社会主義思想に目覚め、赤軍派に加わりました。

しかしリーダーで、あさま山荘事件の首謀者の一人だった森恒夫と対立し、パレスチナに渡って日本赤軍を結成するのです。

日本赤軍が起こした主な事件

日本赤軍が起こした主な事件
日本赤軍は海外で積極的にテロ活動を行っていきます。ここでは日本赤軍事件と呼ばれる、日本赤軍が起こした主なテロ活動についてまとめました。

テルアビブ空港乱射事件

1972年5月30日、イスラエルのロッド国際空港、現在のベン・グリオン国際空港で、日本赤軍が起こしたテロ事件です。

パレスチナ解放人民戦線と手を結び、旅客ターミナル内の乗客、警備員たちに向かって銃を乱射、これにより26人死亡、73人が重軽傷を負うという大惨事となりました。

犯人の奥平剛士、安田安之はその場で死亡、岡本公三は逮捕されましたが、現在はパレスチナ解放人民戦線総司令部の庇護下にあります。

ハーグ事件

1974年9月14日、日本赤軍のメンバー和光晴生、奥平純三、西川純は、オランダのハーグでフランス大使館に立てこもります。大使や職員ら11人を人質にし、拘留中の仲間、山田義昭の釈放と慰謝料を要求しました。

交渉の末、オランダ政府は日本赤軍に30万ドルを支払い、フランス政府も拘留中だった山田義昭を釈放します。

この時の犯人のうち、西川純はスウェーデンのストックホルムで拘束されますが、後に和光晴生、奥平純三、山田義昭が起こしたクアラルンプール事件で釈放されました。

クアラルンプール事件

1975年8月4日、マレーシアのアメリカ大使館、スウェーデン大使館日本赤軍が占拠します。

日本赤軍の要求は日本で拘束されている仲間の釈放でした。その中にはあさま山荘事件の犯人、坂東國男と坂口弘も含まれていましたが、坂口弘は日本赤軍と合流をすることを拒否しました。

一方坂東國男はこの時釈放され、現在も国際指名手配中です。

事件のその後と連合赤軍メンバーたちの現在は?

事件のその後と連合赤軍メンバーたちの現在は?
ここからはあさま山荘事件の犯人たちや、山岳ベース事件の永田洋子らがその後どうなったかについてまとめてみます。

確定死刑囚 坂口弘

連合赤軍のナンバー3であり、あさま山荘事件ではリーダーだった坂口弘は、16件の殺人と1件の傷害致死、そして17件の殺人未遂の容疑で起訴されました。

逮捕されてからはこれまでの連合赤軍の活動方針に疑問を持つようになり、とりわけ山岳ベース事件については反省の念を見せるなどしていました。

日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件で釈放の機会がありましたが、自らの意思でこれを退けました。

その後裁判で死刑が言い渡され、現在も東京拘置所に収監中です。現在まで死刑が執行されていない理由については、共にあさま山荘事件を起こした坂東國男が未だ逃亡中のためです。

坂東國男は国外逃亡

連合赤軍のナンバー5であった坂東國男は、坂口弘らとあさま山荘事件を起こした犯人として
逮捕されます。

その後の調べて、坂口弘同様、山岳ベース事件を含む数々の事件に関与していたことも判明しました。

あさま山荘事件で逮捕された際、父親が自殺しています。逮捕後も40日間に渡って黙秘を貫きますが、父親の位牌を見せられて供述を始めました。

その後クアラルンプール事件で釈放されると、日本赤軍と合流し、現在も国際指名手配中となっています。

吉野雅邦は無期懲役

真岡銃砲店襲撃事件にも加わり、あさま山荘事件では坂口弘、坂東國男らと銃を発砲して逮捕された吉野雅邦は、印旛沼事件の実行者の1人でもあり、山岳ベース事件で妻子の殺害にも加わっていました。

検察は死刑を求刑しましたが、無期懲役となりました。現在も収監中であり、周囲からは「あさまさん」と呼ばれています。

加藤倫教は自民党員

あさま山荘事件当時未成年だった加藤倫教は、兄の加藤能敬の影響で連合赤軍に加わります。

しかし兄の加藤倫教は山岳ベース事件で殺害され、加藤能敬と弟の加藤元久は逃亡しようとしますが、結局坂口弘らに加わって、あさま山荘事件を起こしました。

懲役13年の刑期を終え、出所後は自然保護活動などに力を入れて、テレビの取材に応じたり、自民党員であることを公言したりしています。

少年Bこと加藤元久

兄たちの影響で連合赤軍と行動を共にしますが、長兄の加藤能敬を山岳ベース事件で殺害され、次兄の加藤倫教と逃亡する途中、あさま山荘事件に加わります。

逮捕当時未成年ということもあり、実名報道はされず、保護処分扱いとなりました。

残念ながら加藤元久の現在について情報を見つけることはできませんでした。

山岳ベース事件の首謀者たち

あさま山荘事件に劣らぬインパクトを世間に与えた山岳ベース事件。その首謀者だった森恒夫と永田洋子のその後をまとめました。

自殺したリーダー森恒夫

あさま山荘事件が起きる2日前、活動資金調達のために永田洋子と共に山岳ベースを離れていた森恒夫が、包囲していた警官たちによって逮捕されます。

しかし裁判で刑が決まる前の1973年1月1日、首吊り自殺によりこの世を去りました。享年28歳でした。

永田洋子は獄中死

森恒夫と共に苛烈な総括を行い、12名もの連合赤軍メンバーを殺害した永田洋子は、森恒夫と共に逮捕されます。

裁判では森恒夫よりも主導的に山岳ベース事件にかかわったとされ、死刑が確定していました。

獄中で死刑執行を待っていた永田洋子ですが、2011年2月5日脳腫瘍のため死亡します。

山岳ベース事件が永田洋子の嫉妬や猜疑心による犯行だと決めつけられたことに対して最後まで受け入れず、刑の受け入れも拒否する姿勢を貫きました。

日本赤軍の主な幹部

続いて、日本を飛び出し、世界各地でテロ活動を行っていた日本赤軍と幹部たちのその後を調べてみました。

大阪で逮捕された重信房子

日本赤軍の重信房子は、ハーグ事件へ関与した罪により国際指名手配されていました。

当初は日本赤軍を支援する組織の手を借りて逃亡を続けていましたが、日本赤軍が多数の民間人を犠牲にしたテロを繰り返すことに、国際的非難が高まっていたこと、1980年代に入って日本赤軍の思想が時代遅れとなったこと、などの理由により徐々に支援者たちの協力を得られなくなっていきます。

その後密かに日本へ舞い戻ってきていた重信房子は大阪で逮捕され、懲役20年の刑が確定しました。

連合赤軍と日本赤軍の終焉

連合赤軍ら新左翼組織の活動について、あさま山荘事件までは、当時の世間には肯定する意見もありました。

しかしあさま山荘事件の後、同じく連合赤軍による山岳ベース事件が明るみに出ると、世間の反応は一変します。

連合赤軍はあさま山荘事件、山岳ベース事件などにより自滅するかのように滅亡し、日本赤軍も逮捕された重信房子が獄中から解散宣言を行い、事実上の終焉を迎えました。

あさま山荘事件が社会に与えた影響は?

肯定、否定を含めてあさま山荘事件は、当時の日本社会にどのような影響を与えたのでしょうか?

ここではあさま山荘事件が社会に与えた影響を調査してみました。

あさま山荘事件の視聴率は50.8%

あさま山荘事件はテレビで生中継されていました。その平均視聴率は50.8%、最高視聴率は89.7%に達しました。

日本中のほぼ誰もが、あさま山荘事件に釘付けだったことがわかりますね。

当時小4だったが教室で授業ほったらかしで先生がTVつけてみんなで観てた
な。家帰ってもまだ中継やっててずっとTVにかじいついて観てたよ。
小学生のガキンチョでさえ寝食忘れて観てたくらいだから相当インパクトの
ある事件だったんだよな。

出典: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/natsutv/1100681165/... |

あさま山荘事件でカップヌードルが爆売れ?

あさま山荘事件がテレビで生中継された結果、現場で待機する機動隊や警察官がカップヌードルをすする姿が映し出されました。

これによりそれまで売り上げが低迷していたカップヌードルが爆発的に売れる、とういう社会現象を巻き起こしたのです。

あさま山荘事件をモデルにした映画や小説は?

あさま山荘事件では数多くの書籍が発行され、映画も作られています。ここでは代表する作品をいくつかご紹介します。

映画『突入せよ!あさま山荘事件』

あさま山荘事件で警察側の責任者として指揮を執った、元警察官僚の佐々淳行の著作『連合赤軍「あさま山荘」事件』を原作とし、2002年5月11日に公開された作品です。

主役の佐々淳行を役所広司、その妻役を天海祐希、後藤田正晴を藤田まことが演じ、興行収入10億円のヒット作となりました。

佐々淳行 著『連合赤軍「あさま山荘」事件』

映画『突入せよ! あさま山荘事件』の原作です。

作者の佐々淳行は当時、警察官僚としてあさま山荘事件の現場指揮にあたり、著作の中では、あさま山荘を管轄する長野県警と警視庁の軋轢など裏話が満載です。

北原薫明 著『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』

作者の北原薫はあさま山荘事件では、長野県警警備第二課長として事件解決に向けて奔走しました。

佐々淳行が著した『連合赤軍「あさま山荘」事件』では、警視庁の活躍ばかりがクローズアップされていることを不服に思い、長野県警側の視点で描いたのが本書です。

久能靖 著 『浅間山荘事件の真実』

先に紹介した2冊は警察からの視点で描かれたのに対し、当時日本テレビのアナウンサーだった久能靖が、あさま山荘事件にかかわった警察、犯人、関係者を丹念に取材して書き上げたのが本書です。

山本直樹 著『レッド』

最後にご紹介するのは漫画『レッド』です。本作はあさま山荘事件だけでなく、山岳ベースでのリンチ殺人の模様を生々しく描写し、ネットの口コミでも話題となっています。

隊テロ特殊部隊の設立

隊テロ特殊部隊の設立
あさま山荘事件が起こった当時、日本にはテロ対策はもちろん、銃犯罪に対する警察の防備は全くの手薄でした。

1972年、当時の西ドイツでミュンヘンオリンピックに派遣されたイスラエルの選手たち11名が、テロリストに殺害される事件が起きたことで、日本の警察でも特殊部隊創立が急がれることになりました。

SATの誕生

しかしその設立が本格化したのは、元連合赤軍のメンバーであさま山荘事件の犯人でもあった坂東國男がかかわったダッカ日航機ハイジャック事件の後でした。

ダッカ日航機ハイジャック事件では、犯人側の要求を受け入れるしかなかった日本政府とは対照的に、ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件では、ドイツの特殊部隊GSG-9が犯人グループを射殺

この対応の差により、世界から非難されることになった日本は、1977年特殊部隊を設立。これがのちにSATと呼ばれる組織となり、西鉄バスジャック事件や町田市立てこもり事件でも出動しています。

あさま山荘事件とは結局なんだったのか?

あさま山荘事件とは結局なんだったのか?
民間人1名を含め3名もの尊い命を奪い、10日間もの間警察と攻防を繰り広げたあさま山荘事件とは、いったいなんだったのでしょうか?

連合赤軍は既になく、当時活動していた新左翼組織も今はほとんど絶滅状態であり、メンバーたちの多くは70歳を過ぎています

暴力で革命を起こして、日本や世界を変えたいという彼らの考えは、現代の我々には到底受け入れられるものではありません。

世界からテロをなくすには、1人1人が暴力では何も解決しないことを学び、テロリストには賛同しないことを肝に銘じることが大切なのではないでしょうか。

あさま山荘事件と同様、日本中の関心を引き、連日テレビで取り上げられた事件として、こちらの記事もお勧めします。

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