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【足利事件とは?】冤罪事件の詳細・菅家さんの現在|真犯人は誰?
2019年03月23日

【足利事件とは?】冤罪事件の詳細・菅家さんの現在|真犯人は誰?

日本初の本格的「DNA鑑定」は、冤罪事件を生んだ――。無実だった菅家利和さんの17年を失わせた幼女誘拐殺人「足利事件」を、当時のDNA鑑定の中身、再鑑定の結果、最後まで逮捕されなかった真犯人の情報なども含めて、詳細にまとめました。

誰もが"宮崎勤"の再来を恐れた「足利事件」

平成元年(1989年)夏に発覚した「埼玉連続幼女誘拐殺人事件」をご存知のかたも多いことでしょう。わずか1年のあいだに4件の幼女殺人と1件の幼女わいせつ未遂を犯した「宮崎勤」の名は、いまでも異常性愛殺人鬼の代名詞として広く知られています。

その宮崎勤の逮捕から1年も経たない平成2年(1990年)5月、今度は栃木県足利市・渡良瀬川の河川敷で、当時4歳の女の子が他殺体となって発見されました。のちに冤罪事件としても注目を集めることになった「足利事件」です。

まずは「足利事件」がいったいどのような事件だったのか、詳しく見ていくことにしましょう。

足利事件(あしかがじけん)とは、1990年(平成2年)5月12日、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から女児が行方不明になり、翌13日朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BA%8B... |

「足利事件」その日、何が起こったか

平成2年(1990年)5月12日午後7時ごろ、父親が足利市内のパチンコ店「ロッキー」で遊興中に、同店駐車場で一人で遊んでいた4歳女児が、突然、姿を消しました。

その後、近所の渡良瀬川運動公園で、女児を連れた不審な男の姿が目撃されます。

翌5月13日、女児の遺体が発見されました。付近の川底から、女児が身に着けていたと思われる半袖の下着やパンツが泥だらけの状態で見つかり、即日、栃木県警科学捜査研究所(科捜研)が半袖下着に付着していた微量の精液をもとに、犯人の血液型をB型と断定しました。

数々の目撃証言――「ルパン三世に似た男」

足利事件発生時、女児を連れ立って歩く男の姿は、多くの人々に目撃されていました。5月中旬の夜7時すぎだったので、すでに辺りは薄暗かったものの、女児の赤いスカートがよく目立ったために、目撃者たちの記憶にはっきりと残っていたのです。

上の絵は、買い物途中だった女性美術教師が、目撃した光景をスケッチにしたものです。このほかにも、「(男は)マンガのルパンみたいだった」という目撃証言もありました。

県警にとって三件目――渡良瀬川の「幼女誘拐殺人」

栃木県警は当初から焦りを感じていました。前年に逮捕された宮崎勤の一件で、世間は「幼女誘拐殺人」にナーバスになっていた時期。しかも、栃木県警はこの他に二件の「幼女殺人」を解決できていないままだったのです(他に群馬県でも、未解決事件が一件あった)。

未解決① 1979年8月、5歳女児

昭和54年8月、足利市内の八雲神社境内で遊んでいた5歳女児が行方不明に。6日後、渡良瀬川近くで不審なリュックサックが発見され、中から行方不明の女児の全裸死体が見つかりました。

未解決② 1984年11月、5歳女児

昭和59年11月、足利市内のパチンコ店で5歳女児が行方不明に。事件から1年半近くが経過した1986年3月、女児の自宅から1.7kmほど離れた地点で白骨化死体が発見されました

未解決③(群馬) 1987年9月、8歳女児

昭和62年9月、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)で、子猫を抱いて尾島公園まで遊びに出かけた小2女児が、そのまま行方不明に。翌年11月、利根川河川敷で白骨死体の一部が発見されました。
なお、宮崎勤が昭和63年(1988年)2月に殺害した女児の両親あてに送った「今田勇子」名義の告白文の中で、群馬県の幼女殺人事件が触れられており、宮崎勤の関与が疑われましたが、立件されないまま平成14年(2002年)に公訴時効が成立しています。

捜査は急な”方針変更”、「菅家犯人説」ありきに

足利事件発生から7か月経った平成2年(1990年)12月、栃木県警は突如として、目撃情報に基づく捜査を打ち切り、「子ども好きの独身男性」というプロファイリングに基づいた捜査に切り替えています。

その背景に何があったのか断言することはできませんが、このときすでに聞き込み捜査によって、幼稚園バスの運転手だった菅家利和さん(当時44)が容疑者候補に浮上。

さらに10月時点で警察庁・科学警察研究所(科警研)が、まだ試用段階だった「DNA鑑定」の本格的実用化を決定していました。

つまり、一向に足利事件の捜査が進まなかった栃木県警と警察庁のあいだで何らかのやり取りがあり、「DNA鑑定」による捜査を行うため、犯人逮捕の期限が切られていた可能性も考えられます。急な捜査方針の変更は、「菅家犯人説」を前提にした決め打ち捜査だった可能性が高いのです。

菅家利和さんを逮捕――冤罪証明の戦いが始まった

平成2年(1990年)年末から、菅家さんの身辺調査を開始した栃木県警は、勤務先への聞き込みを実施。これがもとで、菅家さんは翌年3月、勤務先から解雇されてしまいます。

平成3年(1991年)12月1日、栃木県警は、DNA鑑定によって犯人の精液と、菅家さんの生活ごみから採取した精液のDNA型が一致したとの理由で、菅家さんを任意同行で取り調べ、深夜におよぶ取り調べの末、菅家さんの自白を引き出しました。

この自白が決め手で、菅家さんは同年12月2日、わいせつ目的の誘拐、殺人、の疑いで逮捕されたのです。

無期懲役判決、そして菅家さんの有罪確定へ

菅家さんの自白は、渡良瀬川周辺で起こった過去2件の幼女殺人についても犯行を認めるものでしたが、検察は過去2件については嫌疑不十分として不起訴(自白のみで、DNA鑑定による具体的な証拠がなかった)。足利事件のみ「自白」と「DNA鑑定」を決め手に起訴処分としました。

菅家さんは第一審の途中から犯行を否認。しかし宇都宮地裁は平成5年(1993年)7月、菅家さんに無期懲役の判決を下しました。さらに東京高裁は控訴を棄却。平成12年(2000年)7月、最高裁の判決によって有罪が確定しました。

DNA再鑑定の結果、冤罪が認定される

足利事件は解決されたかのように思われましたが、菅家さんは自身の潔白を粘り強く訴え続け、のちに冤罪か否かを判断するためのDNA再鑑定が行われました。

平成21年(2009年)6月、足利事件のDNA再鑑定の結果を受けて、菅家さんの釈放と再審開始が決定され、平成22年(2010年)3月26日、菅家さんの無罪が確定。足利事件は一転して、冤罪事件となったのです。

年表① 菅家さんの有罪が確定されるまで

事件経過年月日
「足利事件」発生1990年5月12日
菅家利和さん、逮捕1991年12月2日
菅家さんが起訴される1991年12月21日
足利事件・第1審初公判(宇都宮地裁)1992年2月13日
第1審で無期懲役判決1993年7月7日
17回の公判の末、控訴棄却(東京高裁)1996年5月9日
最高裁、上告棄却。菅家さんの有罪確定2000年7月17日

年表② 菅家さんが冤罪確定に至るまで

経過年月日
菅家さん、再審請求2002年12月25日
再審請求棄却(宇都宮地裁)、即時抗告2008年2月13日
東京高裁、DNA再鑑定を指示2008年12月19日
DNA再鑑定の結果、DNA型が別人と判明2009年4月20日
菅家さん、釈放2009年6月4日
再審開始(宇都宮地裁)2009年10月21日
無罪判決(宇都宮地裁)即日無罪確定2010年3月26日
平成22年(2010年)3月26日、宇都宮地検が同日下された無罪判決への上訴権を放棄して、菅家さんの無罪が確定しました。逮捕されてから既に17年半の年月が経過していたのです。

年表でも確認できるように、裁判所は過去4度にわたって、菅家さんに誤った判断を突きつけて冤罪被害をもたらしてしまいました。

また、警察の捜査・取り調べ、検察側の主張を重く扱った一方で、弁護側の反証には十分な回答を示してこなかったこともあり、冤罪を生んだ当時の裁判官たちに厳しい批判が集まりました。

冤罪被害者・菅家利和さんは、なぜ疑われたのか

17年半もの長きにわたり、足利事件の冤罪被害で人生の自由を奪われた菅家利和さん。足利事件当時、菅家さんはどのような境遇にあったのか、そしてなぜ疑われてしまったのかを見ていきましょう。

菅家利和さんプロフィール

項目データ
名前菅家利和(すがや としかず)
誕生年昭和21年(1946年)
職業元・幼稚園の送迎バス運転手。
菅家利和さんは、昭和21年(1946年)生まれ。事件発生当時、幼稚園の送迎バス運転手をしていた頃は40代半ばに差し掛かっていました。一度の結婚歴はあるものの、当時は独身者として借家住まいをしていました。

当時はバブル経済の絶頂期で、多くの国民が「一億総中流」を謳歌していましたが、その中にあって幼稚園バスの運転手で独身の中年男性、というのは決して恵まれた境遇にはありません。サラリーマンや公務員以外は、さほど豊かではなかったのです。

パートナーがいないため、平日は実家で過ごし、土日だけ借家で過ごしていました。のちに菅家さんが逮捕されると、新聞報道ではこの借家を「休日アジト」と指摘。「バブル経済の恩恵にあずかっていない不遇な独身男性」が「休日アジト」で次なる犯罪を計画、というイメージが作り上げられました。

菅家さんは、なぜ疑われたのか

菅家さんが警察からマークされた理由は、次の通りです。

(1)4歳女児失踪現場(パチンコ店)と菅家さんの借家が、直線距離にして約2.5キロと近かった。
(2)菅家さんがパチンコ好きだった
(3)借家付近の住民が、菅家さんを怪しいと証言した
(4)菅家さんの血液型が、犯人の血液型と同じB型だった
(5)自宅から133本ものアダルトビデオが見つかった
(6)菅家さんの勤務先の園長が、菅家さんの子どもを見る目つきが怪しいと証言
(7)もちろん子供と接する機会も多い

菅家さんをマークするのは、警察としては当然のことでした。しかし当時の時代背景もあって、焦って「決めつけ捜査」をしたため、警察はのちに「冤罪」という大きな過ちを犯すことになりました。

足利事件の冤罪立証――DNA再鑑定

足利事件の冤罪証明の決め手は「DNA再鑑定」でした。事件当時、実用化が決定されたばかりのDNA鑑定は、精度が決して高いものではなく、なおかつ鑑定手順も大変ずさんだった疑いがありました。

菅家さんの再審請求から5年ほど経った平成20年(2008年)1月、足利事件に冤罪の可能性を感じていた日本テレビ報道局・清水潔記者を中心に、冤罪キャンペーン報道がスタート。DNA再鑑定の必要性を訴え、同年12月、ついに東京高裁によるDNA再鑑定の指示を引き出しました。

冤罪を生んだ未熟な「DNA鑑定」手順

当時のDNA鑑定法は「MCT118法」と呼ばれます。その判定には人の目、つまり目視が必要であり、また古い試料では正確な判定が難しくなるという欠点がありました。

さらに1000人に1人の割合で別人のDNA型と一致してしまう精度の低さで(のちに、似たタイプのDNA型を持つ人が多い日本では、実際は161人に1人の割合だったことが判明)、犯人を特定できるレベルどころか、冤罪被害を増産しかねないレベルでした。

さらに足利事件では、DNA試料の採取方法も、ひどいものでした。菅家さんに無断で、ゴミに出されたゴミ袋の中のティッシュペーパーを押収、そこに付着した精液と、被害女児の衣服についていた精液のDNA型を鑑定したのです。

当時のDNA鑑定「MCT118法」とは?

ヒトの細胞には23対(46本)の染色体が存在します。このうち、1番目の染色体(2本で一組。それぞれ両親から1本ずつ受け継がれる)のDNAの「MCT118」と呼ばれる部位では、特定の並び方をした16個の塩基が、何度も繰り返して現れます。

その出現回数は、人によって異なります。一番少ないタイプは14回、一番多くて42回。染色体は2本で一組なので、1本が14回、もう1本が25回なら、「14-25型」となります。

ただし、当時の判定基準はのちに誤りがあることが判明し、真犯人や菅家さんのものであるとされたDNA型は、当初の「16-26型」から「18-30型」へと変更されています。

冤罪・足利事件のDNA再鑑定

足利事件は冤罪なのか――。注目のDNA再鑑定は、検察側推薦の大阪医科大・鈴木廣一教授と、弁護人側推薦の筑波大・本田克也教授の二名によって行われました。鑑定方法は「STR法」と呼ばれるもので、短い塩基配列の繰り返しパターンを、多くの部位から調べて鑑定する方法でした。

この結果、鈴木鑑定と本田鑑定は、両方とも「DNA型不一致」の結論にたどり着きます。つまり、真犯人のDNA型と菅家さんのDNA型は別人のものと判明、足利事件が冤罪事件である可能性が一気に高まったのです。

「MCT118法」の過ちを認めたくない科警研

ところが、足利事件の当初のDNA鑑定を実施した科学警察研究所(科警研)は、「MCT118」は当時としては最新の技術で、科警研の判定は間違いではなかった、という立場を取りました。

つまり、当時の大まかな判定を現代の細かな判定で読み直したら別人だとわかっただけで、たとえそのせいで冤罪事件になってしまったとしても、当時としては精いっぱいだった、という保身優先の説明です。

弁護側推薦の筑波大・本田克也教授は、当時と同じ「MCT118型」での再鑑定も実施。そこで、驚くべき重大な事実が判明します。
MCT118 科警研MCT118 本田教授
犯人のDNA型18-3018-24
菅家さんのDNA型18-3018-29
本田教授の再鑑定は、同じ「MCT118法」での鑑定を、目視ではなく最新のコンピュータを使用して実施。そこで得られた結果では、犯人のDNA型は「18-24型」、菅家さんのDNA型は「18-29型」で、科警研の導き出した「18-30型」とは、どちらも別人のものだったのです。

つまり、最初から犯人のDNA型「18-30型」は事件現場に存在しなかったことになります。これでは、その後の鑑定をどれほど慎重に行っても、絶対に犯人にたどり着きません。足利事件が冤罪事件になってしまった背景には、このような初歩的なミスが絡んでいたのです。

科警研の使用試料は、汚染されていた可能性が高い

科警研は「MCT118法」でのDNA再鑑定を頑なに拒み、本田教授の鑑定も認めようとはしませんでした。その一方で、検察は当時の足利事件担当捜査員たちのDNA型や、被害女児の家族のDNA型も調べ始めました。

つまり、その後の経験の蓄積で、いまやDNA鑑定に完全に精通していた科警研は、足利事件当時、自分たちの使った試料に、捜査員や遺族のDNA型が混ざり込んでいた可能性に気づいていたのです。

実際に、捜査幹部のDNA型が、全く別の事件の犯人のDNA型と完全に一致した事例が見つかります。事件現場で、捜査幹部が怒鳴った際の唾(つば)が、遺体にかかったことが原因らしいと判りました。

被害女児の衣服に、母親のDNA型が混ざったか

被害者家族のDNA型も鑑定したところ、母親のDNA型が「30‐31型」と判りました。ちなみに被害女児のDNA型は「18-31型」。父親から18型、母親から31型を受け継いでいたということになります。

そして当初、足利事件の犯人のものと思われた「18-30型」は、「30-31型」である母親のDNA型が混ざった疑いが格段に強まりました。日常的に被害女児の衣服に接触している母親のDNA型が、証拠の衣服に付着していたとしても何らおかしくありません。

つまり当時の科警研は、試料となる衣服を調べる際、被害者家族のDNA型を事前に調べておく作業すら怠っていた(忘れていた、思いつかなかった)のです。これほどずさんな手順を踏めば、足利事件で冤罪が生まれてしまうのも必然だといえます。

超えられない時効の壁――真犯人は野放しのまま

かつて週刊誌『FOCUS』記者時代に、「桶川ストーカー殺人事件」で警察よりも早く犯人の割り出しに成功し、被害者の告訴を警察がもみ消していたことまでスクープした実績のある清水潔記者(足利事件当時、日本テレビ報道局記者)は、いわば「調査報道」のエキスパートでした。

清水潔記者は、足利事件が冤罪である可能性を追跡し、大々的に冤罪キャンペーン報道まで展開していましたが、実はその裏で、すでに足利事件の真犯人と思しき男を特定していました。

条件に合致する「ルパン」の特定

渡良瀬川付近で起こっていた足利事件を含む複数の幼女誘拐殺人と、群馬県太田市で起こっていた幼女誘拐殺人は、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と呼ばれています。

清水記者は、この犯人が同一人物であると仮定した場合の犯人像として、次のような人物をリサーチしていました。
  1. 足利市・太田市に土地勘があり、
  2. 血液型はB型で、
  3. パチンコ好きであり、
  4. 幼女と仲良く会話できる、
  5. 身長160cmくらいの男

「ルパン」似の男は実在した

のちに、足利事件の犯人が「ルパン三世」に似ているという目撃証言があったことを知った清水記者は、リサーチした結果、浮上してきたある人物の若い頃の写真を入手。「ルパン」証言をした目撃者に確認し、その男こそ真犯人であるとの確信を得ます。

清水記者は男に直接取材を敢行。その際に入手した男のDNAを鑑定したところ、最新の「STR法」でも「MCT118法」でも、DNA型が犯人のものと完全に一致したのです。

なぜ真犯人は逮捕されなかったか

清水記者の調査により、足利事件の真犯人はほとんど特定されていました。しかし、真犯人は逮捕されないまま公訴時効(犯罪完結時点から一定期間が経つと、起訴できない)を迎えました。

公訴時効は、しかしながら、たとえば共犯者がいた場合に共犯者の裁判がストップしていると時効もその分延長されるなど、実は柔軟に運用されている制度です。今回の場合は、警察の誤認逮捕(冤罪)が理由で時間を消費してしまったので、それを理由に公訴時効を先延ばしすることはできたはずでした。

足利事件の公訴時効が延長されなかった背景

足利事件の真犯人の逮捕に向けて、公訴時効の延長が検討されなかった理由は、主に次の二点でした。

(1)平成8年(1996年)に群馬県太田市で「横山ゆかりちゃん失踪事件」が発生。もし真犯人を逮捕した場合、警察の菅家さんの誤認逮捕(冤罪)によって失踪事件が新たに生じてしまったことが明らかになるため。

(2)足利事件と同じ科警研チームがDNA鑑定をした「飯塚事件」の死刑囚・久間三千年が死刑を執行された。足利事件と同様に冤罪の可能性が疑われていたため、足利事件の真犯人逮捕は、飯塚事件の死刑執行が「国家殺人」とみなされ、科警研の信用が地に落ちる可能性が高いため。

つまり、「もう時効なのだから」このまま真犯人を逮捕せず、過去の痛いところを突かれないようにしたい、という警察の思惑が透けて見えてくるのです。

ここがおかしい! 警察捜査・3つの問題点

足利事件の真犯人が逮捕されない理由の検証でも触れたように、警察庁にとっては、DNA鑑定実用化初期の二大事件(足利事件、飯塚事件)での鑑定失敗は、科警研の信用を失墜させかねない非常にデリケートな問題でした。

また、菅家さんが逮捕されるに至った平成3年(1991年)12月1日の取り調べでは、警察の「決めつけ捜査」による、取り調べ時の横暴な態度も問題視されています。

なぜ警察庁は未完成のDNA鑑定にこだわったか

冤罪を引き起こした足利事件のDNA鑑定は、次の点があまりにも未熟で、とても実用段階にあるレベルではありませんでした。

未熟な点① 菅家さんのDNA採取方法が、無断でゴミを漁るという方法だった
未熟な点② 被害女児の衣服の鑑定の際、被害女児および家族のDNA型を調べなかった
未熟な点③ 試料の保存方法がずさんで、しばらく常温で保管していた

つまり実用化前に数十件分の試用期間があったとはいえ、鑑定技術が未発達だった以上に、鑑定手順がしっかりとマニュアル化できていなかったのです。

では、なぜ警察庁は、そのようなレベルでもDNA鑑定の実用化を急いだのでしょうか。

DNA鑑定予算確保と足利事件

写真の人物は、足利事件当時、警察庁刑事局長だった國松孝次・元警察庁長官です。のちに、「國松長官狙撃事件」とよばれる暗殺未遂事件の被害者になった人物で、DNA鑑定の導入に尽力した人としても知られています。

DNA鑑定は当時、世界各国で導入、あるいは導入の検討が始まっていました。科学分野ですので、導入の遅れは技術発展の遅れにもつながります。警察としては、DNA鑑定をいち早く導入し、世界最高水準の鑑定技術を手に入れることで、日本の警察力の威信を高めたい狙いがりました。

そこで、必要になってくるのがDNA鑑定機器を全国配備するための予算です。足利事件は、宮崎勤以来、特に注目を浴びていた「幼女誘拐殺人」でもあったため、のちに発生する飯塚事件と合わせて、DNA鑑定の実績づくりの最初の機会に選ばれたのです。

冤罪を引き起こした足利事件捜査の問題点

冤罪によって菅家さんの17年を奪い、横山ゆかりちゃん失踪事件を新たに発生させてしまった足利事件では、警察の捜査に決して見過ごすことのできない重大な問題点がありました。

①菅家さんを自白に追い込んだ横暴な取り調べ

菅家さんを犯人と決めつけた栃木県警の取り調べは、あまりにも強引かつ横暴であったために、菅家さんの心を折り、取り調べの恐怖から逃れるための「虚偽自白」が生じてしまいました。

もちろん、凄んでみせてやっと罪を白状する犯罪者もいることでしょう。しかし一方で、「ルパン似の男」だったとの目撃情報を得ていた警察は、菅家さんの写真を目撃者に確認した際、その反応の薄さには目を瞑っていたのです。

容疑者に正直を強要しながら、自分たちの不正直に目を瞑ってしまうようでは、冤罪事件はいつまでもなくなりません。足利事件のような冤罪被害を生まないためにも、まずは警察自身が不正直をあらためないといけません。

最初の目撃証言をした証言者たちの中の一人に対し、自宅を訪れ、「正直言ってアンタの証言が邪魔なんだ。消したいんだ」と目撃証言の撤回を迫り、証言を撤回させ調書も勘違いに書き換えた

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BA%8B... |

②組織体制の保全を優先、足利事件の解決から逃げた

DNA鑑定の失敗を認めれば、そのときの幹部たちは冤罪被害の責任を取らざるを得ません。しかし、だからと言って「警察の信用失墜」にはつながるわけではないのです。新しい人事によって、新体制で過ちを繰り返さなければ良いだけのことで、組織自体が瓦解することにはなりません。

警察が恐れる組織瓦解とは、いまの顔ぶれによる組織体制の瓦解に過ぎません。顔触れが変わることでの方針変更を何よりも恐れているのです。しかしその結果、足利事件のように冤罪が生じたり、冤罪の裏で真犯人が野放しになるようでは目も当てられません。

③国家警察が存在しない――責任の所在が曖昧

日本には国家警察が存在しません。北海道警、京都府警、大阪府警、全国の県警、そして警視庁(東京都警察)があり、警察庁はその調整役に過ぎません。

しかし冤罪で大問題になった足利事件では、栃木県警の強引な取り調べと、警察庁のずさんなDNA鑑定という、まったく異なる組織の問題がクローズアップされ、冤罪被害を生んだ事件捜査全体への責任の所在が曖昧なのです。

ちなみにアメリカにはFBI(連邦捜査局)、イギリスにはNCA(国家犯罪対策庁)があります。国際刑事警察機構(インターポール)は各国の国家警察が連携するための機関ですが、日本では国家警察がないため、警察庁がその代わりになっています。

そのため、日本では都合のいいときに警察庁が登場し、都合の悪いときは県警まかせ、という状態で、足利事件の冤罪被害はどこに責任があるのかが判然としないのです。

冤罪・足利事件――菅家さんの失われた17年

足利事件で冤罪被害に遭った菅家利和さんは、逮捕当時45歳でした。それから29年、70代半ばに差し掛かった現在の菅家さんは、「社会運動家」として冤罪被害支援に精力的に取り組んでいます。

いまでは笑顔も見られる菅家さんですが、収監当時はつらい毎日を送っていました。警察の聞き込み調査がきっかけで幼稚園をクビになった記憶、過酷な取り調べの記憶、一人残してしまった母のこと――。

これが冤罪であるということを誰よりも知っていただけに、何を言っても信じてもらえない現状は、菅家さんに深い孤独を感じさせていたといいます。

「187番」が刑務所内での呼び名

「187番」が刑務所内での呼び名
平成12年(2000年)7月、最高裁で無期懲役刑が確定したのち、菅家さんは東京拘置所から千葉刑務所へと移送されました。

そこでは別の受刑者と相部屋になることもあり、「本当はお前がやったんだろう」とののしられることもあったといいます。千葉刑務所での呼び名は「187番」

菅家利和という名前も、これまでの人生の誇りも、足利事件によってすべて「187番」という番号に集約されてしまう悔しさは想像を絶します。

菅家さんを支えた人々の存在

刑務所では理不尽な冤罪被害によって孤独な戦いを強いられた菅家さんでしたが、「これは冤罪である」と声をあげる菅家さんを、長く支えてきた人々がいます。菅家さんは、そんな人々の支えがあったことで、最後まで戦い抜くことができたのです。

たとえば、菅家さんと同じ幼稚園で送迎バスの運転手を務めていた西巻糸子さんは、拘置所まで毎月足を運び、面会をして菅家さんを励ましてきました。菅家さんが釈放の日に来ていたグレーのジャケットは、西巻さんからの差し入れでした。

弁護士の佐藤博史さんは、無罪を勝ち得るまで、かさむ経費の一部を負担し、これまで個人で1000万円ほどの持ち出しになったといいます。

こうした人々の支えもあって、菅家さんの冤罪による失われた17年は、ようやく報われるときを迎えたのです。

足利事件のような冤罪被害を減らすためにできること

足利事件のような冤罪被害を減らすためにできること
足利事件を知ることで、私たちはどのようにして冤罪被害が生まれるのか、その一端を垣間見ることができます。冤罪は、事件被害者やその家族、そして冤罪被害者とその家族をまとめて不幸にするだけでなく、真犯人が捕まらないまま時間が経ってしまうという一面もあります。

菅家さんのように、冤罪被害を減らすための社会活動を行うのは大変な労力と勇気が必要です。しかし、冤罪被害の裏側には「真犯人」が必ず存在しているので、早く真犯人を捕まえてほしい、と声を上げることは大切でしょう。

新たな冤罪被害者を出さないためにも、冤罪事件のニュースに触れたときは、真犯人が捕まったのかどうかを確認したうえで、真犯人逮捕を期待する声をツイッターなどに上げてみるといいかもしれません。

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