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東京佐川急便事件とは?|概要や真相をわかりやすく徹底解説!
2019年03月14日

東京佐川急便事件とは?|概要や真相をわかりやすく徹底解説!

東京佐川急便事件をご存知ですか?30年近く前のヤミ献金事件で、当時の自民党のボス、金丸信副総裁が失脚した事件です。金丸信以外に疑惑の政治家もいましたが真相究明されず闇の中に包まれています。東京佐川急便事件を契機に進んだ新党結成・政界再編なども詳しく紹介します。

東京佐川急便事件とは?

東京佐川急便事件とは?|概要や真相をわかりやすく徹底解説!
東京佐川急便事件は今からもう30年近く前に起きた出来事なので、覚えている人やおおよそを把握している人も少ないでしょう。田中元首相が逮捕されたロッキード事件などと並んで高度成長期の日本における政治疑獄事件の一つです。

この東京佐川急便事件では多くの政治家が関わったとされています。当時、自民党の副総裁で陰の総理とも言われた金丸信が失脚したことで幕引きされたようになっていますが、政権と右翼、暴力団との疑惑やその後の政界再編、新党結成、現在の政局などに大きな影響を与えている事件です。

大きなお金が動いたこの事件が起きた土壌や、その経緯、その後の政局への影響などを詳しく見てみましょう。

金丸信の5億円ヤミ献金受領に進展

この東京佐川急便事件は1987年、昭和62年、平成になる2年ほど前に端を発しています。自民党の総裁人事に絡んで、次期総裁候補の竹下登に対する右翼の嫌がらせ活動が発端です。ただ、その頃は報道でもまだあまり表沙汰にはなっていませんでした。

この右翼の嫌がらせ活動を抑えるために、自民党の当時副総裁だった金丸信が東京佐川急便の社長に仲介を依頼したのがきっかけになって、東京佐川急便から多額の資金が政界などに裏金として流れる事態に進展してしまいます。

東京佐川急便事件として表面化し大きく報道されるようになったのは、金丸信に対する東京佐川急便からの5億円の裏金、ヤミ献金が発覚してからのことです。金丸信はその受領を認め、自民党副総裁、国会議員を辞任、その後脱税でも逮捕され政界から姿を消すことに繋がっていきます。

なぜ東京佐川急便事件と呼ばれるのか?

この事件は、当初は単に「佐川急便事件」と呼ばれることがほとんどでした。ところが、2001年に奈良県で再び佐川急便に関わる贈収賄事件が発生したために、区別するため当時の社名を使った「東京佐川急便事件」と呼ばれるようになりました。

ヤマト運輸と並んで佐川急便は今では宅急便の最大手ですが、当初は配送区域毎に会社の認可を受けて全国展開していました。現在はSGホールディングスとして統合し、東証にも上場しています。東京佐川急便は現在はSGホールディングスグループの佐川急便東京本社になっています。

東京佐川急便事件の経緯

東京佐川急便事件は、1987年の右翼、皇民党による竹下登自民党次期総裁候補への嫌がらせ街宣活動などの事件が発端です。その事件を契機に、金丸信など政界に強いパイプができた東京佐川急便の社長が巨額の融資や債務保証を行なうようになり、疑惑の根源が作られていきます。

事件としては、当時自民党副総裁だった金丸信の5億円ヤミ献金受領に関する政治資金規正法違反による起訴、それとは別の4億円脱税による逮捕などで金丸信の政界引退で幕が引けたかのように見えます。

しかし、政界に流れたその他の裏金などはほとんど解明できず、闇の中に埋もれたまま終焉した事件です。この事件を契機に新党乱立や政界再編などが進み、政治の流れが大きく変わっていきます。さまざまな出来事が含まれている事件なので、時系列順に細かく見ていきましょう。

皇民党事件が発端

皇民党事件は、1987年、四国高松市に本部を置く日本皇民党による自民党次期総裁候補の竹下登に対する嫌がらせ活動に関する事件です。日本皇民党は、稲川会とも深いつながりがある右翼団体で、1972年に五代目山口組若頭宅見勝の兄弟分の稲本虎翁によって設立されました。

中国や日本共産党、日教組など左寄りの国や団体が主な批判対象で、YouTubeの動画にあるような街宣車で街頭演説するスタイルが知られていて都会ではたまに見かける光景です。

竹下登への嫌がらせ活動では、「日本一金儲けの上手い竹下さんを総理にしましょう」という「ほめ殺し」演説が執拗に繰り返されました。この竹下登への皇民党事件が発端となって、金丸信が失脚した東京佐川急便事件に進展していきます。

日本皇民党は、高松市に総本部を置く稲川会傘下の任侠系街宣右翼団体である。1980年代後半に自民党総裁の竹下登元内閣総理大臣に対して「ほめ殺し」と呼ばれる街宣車での街宣活動をしたことで知られる(皇民党事件)。
その活動範囲については、長らく西日本が中心とされてきたが、近年、関東地方へ進出しており、2010年(平成22年)1月13日に構成員が小沢一郎当時民主党幹事長の自宅に火炎瓶を投げ入れるパフォーマンスをしたことをきっかけに、それまで拠点が無いとされた東京に約20人程度の「東京グループ」の存在が浮上し、警視庁公安部が監視している。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9A%87... |

次期総裁候補の竹下登をほめ殺しの妨害街宣活動

日本皇民党による竹下登に対する「ほめ殺し」妨害活動が始まったのですが、そもそもどうしてこのような事態になったのでしょうか。その理由には田中元首相が関わっていたと言われています。

竹下登はもともと自民党では田中派に属していましたが、ロッキード事件などで権威が失墜してきた田中派から独立して経世会を立ち上げました。これを田中角栄が気に入らず、竹下が自民党の総裁候補に立候補した時に、妨害活動に関わったと言われています。

このことは、日本皇民党との仲介の際に「竹下が田中邸に直接謝罪に行くこと」を条件とされたことからも裏付けられます。なお、日本皇民党が竹下の攻撃に使った「ほめ殺し」という言葉を定着させたのは、暴れん坊で有名な浜田幸一代議士とされています。

「ほめ殺し」とは、右翼団体が行う街頭宣伝活動の一形態で、攻撃対象を徹底的に皮肉を込めて誉め称える、嫌がらせの街宣活動を行い圧力を加える。なお、この事件を取材したジャーナリストの岩瀬達哉によると、ほめ殺しなる言葉を定着させた人物は、浜田幸一だとされている。岩瀬が竹下の生い立ちや、同事件の取材をまとめた「われ、万死に値す」の文中で、浜田が、竹下の意を受け、工作資金8億円を持参し日本皇民党を訪問するものの、一顧だにされず、激昂した浜田が発した言葉が、『お前らのやってることは、ほめ殺しじゃないか』だったとのことである。

出典: https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%9A%87%E6%B0%91%E5... |

金丸信が皇民党との仲介を東京佐川急便社長に依頼

日本皇民党の妨害活動に対処するために竹下は腹心の金丸信に相談します。金丸信は日本皇民党が稲川会系であることから、稲川会と繋がりのある東京佐川急便の渡辺広康社長に稲川会会長石井隆匡との仲介を依頼することになります。

東京佐川急便の渡辺社長は、広域暴力団の稲川会に日本皇民党との仲介を依頼し、竹下が田中邸に直接謝罪に行くこと条件に「ほめ殺し」妨害活動を止める仲裁を取付けました。竹下は目白の田中邸を訪問し門前払いを受けましたが、それを機に妨害活動は止んだということです。

金丸信や小沢一郎が稲川会の石井会長などを訪れた際には、石井らに深々と頭を下げたという報道もあり、右翼、暴力団の影の力のほどが伺えます。日本皇民党に8億円を持参するも一顧だにされなかった浜田幸一に比べて、この件では金丸信の調整力の高さも評価されています。

皇民党事件は沈静化し竹下登は首相就任

金丸信の調整で、東京佐川急便渡辺社長による稲川会や日本皇民党との仲裁が成立し、竹下が目白の田中邸を訪問したことで皇民党事件は沈静化します。この数週間後の1987年11月、竹下登は自民党総裁選に勝利して第74代内閣総理大臣に就任します。

1989年にリクルート事件で総辞職しますが、消費税導入やふるさと創生1億円事業などを行なった昭和から平成にかけての総理大臣として名を残しています。ただ竹下本人は当然否定していますが、総理誕生の影にはYouTubeにあるような裏社会の背景があるのは否定できないでしょう。

竹下の実家は島根県で300年続いている旧家で代々造り酒屋を営んでいて、タレントのDAIGOが孫であることは有名な話です。

バブル崩壊で東京佐川急便は倒産寸前に

皇民党事件は金丸信らの働きで鎮静化しましたが、東京佐川急便の渡辺社長はこれを契機に政界に強いパイプを持つことになります。渡辺社長は、稲川会の石井隆匡会長の所有する会社や関係会社などに次々と融資や巨額の債務保証を行なうようになります。

東京佐川急便が債務保証を行った融資の総額は、4000億円以上、40企業に及ぶようになりましたが、1991年に入るとバブル経済の崩壊が始まります。これにより多くの巨額債務が返済不能の状況になり、東京佐川急便は倒産寸前に追い込まれ親会社の佐川急便に吸収されることになります。

この時、1991年7月、渡辺社長他、東京佐川急便の幹部は全員解雇され、信託義務違反の容疑で東京地検に起訴されました。

東京佐川急便社長らは特別背任容疑で逮捕

これらの捜査にあたったのは東京地検特捜部で、数千億円単位の資金が暴力団などの非合法組織に流れていたため徹底的な捜査が行なわれました。結局、1992年2月、渡辺社長ら幹部4人は東京佐川急便に952億円の損害を与えたとして、特別背任容疑で逮捕されました。

東京地検特捜部はさらにヤミ献金や不正融資などの疑惑の追及を続け、政界の闇のなかに迫っていくことになります。渡辺社長と政界では最もつながりが強かった金丸信へ捜査の手がのびることは必然のことだったのでしょう。

金丸信が5億円ヤミ献金受領で起訴、議員辞職

東京地検特捜部の捜査の過程で、東京佐川急便渡辺社長から金丸信に5億円を提供したとの供述が得られましたが、そのことが政治資金収支報告書の記載になかったことからヤミ献金とされ、1992年に金丸信は政治資金規正法違反で略式起訴されることになります。

そのことで金丸信は議員辞職に追い込まれ、その翌年には別件の4億円の脱税容疑で逮捕され、裁判係争中の1996年に脳梗塞で死去、人生の幕を閉じました。

金丸信の人物像

金丸信は1914年9月に山梨県の現南アルプス市で生まれています。金丸家は造り酒屋を営む地主で、親戚には地元の有力者や政治家もいる裕福な家柄です。その長男として不自由のない幼少期を過ごしています。

添付のYouTubeにはWikipediaによる金丸信の来歴が音声で収められています。1958年、44歳で衆議院議員に当選し、国政のなかでさまざまな人脈を築き、自民党の国会対策委員長や総務会長、幹事長、副総裁などの要職を務めます

金丸信は政界のドンと言われながら、自ら首相を目指すことはなくキングメーカーに徹しました。地元の山梨には中部横断自動車道やリニア新幹線の誘致などの功績を残しています。甲府市街から金丸の生家まで真直ぐにつながるアルプス通りと開国橋は金丸道路として有名です。

政治資金規正法違反で金丸信は略式起訴

1992年、東京佐川急便の渡辺社長が特別背任容疑で逮捕され取り調べを受けるなかで、金丸信に5億円の政治献金をしたことが明らかになりました。時は1989年6月、その年の夏の参議院選挙での選挙資金が目的です。

消費税導入で自民党は苦しい選挙情勢のなか、金丸信が要望した金額は10億円だったのですが、渡辺社長は5億円を工面し自ら車を運転して永田町の金丸事務所に行き、金丸信の秘書に手渡しした、と検察に供述しています。

1992年8月、金丸信側は当初これを否定していましたが、最終的に5億円の受領を認めました。その資金が政治資金収支報告書に記載されていなかったことからヤミ献金とみなされ、金丸信は9月28日に政治資金規正法違反で略式起訴されました。

金丸信の罰金20万円に世論は猛反発

政治資金規正法違反で略式起訴された金丸信に対する罰則は、起訴の翌日29日に東京簡易裁判所から出された罰金20万円の略式命令です。5億円のヤミ献金、賄賂に対する刑罰が、逮捕も事情聴取もされず、たった罰金20万円という結果に国民は猛反発し、怒りがおさまりません。

検察庁の表札にはペンキがかけられ、身内の札幌高等検察庁検事長から新聞に批判投稿されるという異例の事態も発生しました。当時参議院議員で後に東京都知事にもなる青島幸男が、議員辞職を求めてハンガーストライキをするなど、金丸オロシの声は止みません

金丸信はヤミ献金が新聞報道がされた後、8月27日に自民党副総裁の要職は辞任していましたが、この罰金20万円に対する世論のバッシングによって議員辞職に追い込まれることになります。

議員辞職し失脚したその後の金丸信は

5億円ヤミ献金で罰金20万円の罰を受けた金丸信は、世論などの猛反発を受け、結局10月14日に衆議院議員を辞職し、自民党竹下派会長の職も辞任します。事実上の政界からの引退と言えるでしょう。

その後、その翌年の1993年3月、金丸信の妻の遺産申告に関連して多額の申告漏れが発覚し、脱税の容疑で東京地検に逮捕されます。自宅の家宅捜索では、数十億円の不正蓄財が発覚、一千万円相当の金塊などが発見されました。

その2年後あたりから金丸信の体調が悪化、持病の糖尿病や左目の白内障でほぼ失明状態になったとのことです。それでも裁判には自宅の山梨から東京地方裁判所まで月に1、2度通っていたのですが、体調が極度に悪化し、1996年3月28日に脳梗塞で死去しました。享年81歳です。

東京国税局は、金丸の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行(日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕した。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B8%B8%E4%BF%A1 |

竹下登は国会の証人喚問へ

竹下登は第74代総理大臣就任前に、皇民党事件で金丸信らの仲介で助けられたのですが、1992年に東京佐川急便事件が本格的に発覚する前の1989年6月にリクルート事件への関与で総理大臣を辞任しています。

東京佐川急便事件が発覚してから、主にその発端となった皇民党事件の審議で1992年11月26日に竹下は衆議院での証人喚問を受けています。竹下は東京佐川急便の渡辺社長と会談したことは認めましたが、その内容については不明瞭な言動で明確な回答は行ないませんでした。

右翼や暴力団などとの関わりは絶対に言葉にできないことなのでしょう。添付したNHKアーカイブのサイトでは、証人喚問の様子を動画で見ることができます。

東京佐川急便事件に関連して新たな問題が浮上した。竹下政権が誕生した際、「ほめ殺し」という妨害活動を続ける右翼団体・皇民党に対して金丸前副総裁が動き、東京佐川急便の渡辺広康元社長を通じて暴力団稲川会の前会長に協力を依頼したことが、明らかになった。国会での証人喚問で竹下元首相は「渡辺元社長から田中元首相邸にあいさつに言ったらどうかと言われた」と証言した。竹下元首相はこの会談のあと田中邸を訪問し、その後妨害活動は行われなくなった。

出典: https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?... |

社会党議員や新潟県知事にも波及

東京佐川急便事件で追及されたのは金丸信だけではありません。新潟県選出の社会党国会議員や新潟県知事にも疑惑が波及しました。新潟県知事の金子清は、東京佐川急便の1億円献金疑惑で1992年9月に辞職しています。

社会党の国会議員、筒井信隆、吉田和子、安恒良一が追及され、筒井信隆、吉田和子は佐川からのヤミ献金疑惑で党役職を辞任、安恒良一も同様の疑惑と所得隠しから除名処分を受ける結果になっています。

東京佐川急便事件は自民党だけでなく社会党にも大きなダメージを与えました。添付のグラフに示すように、東京佐川急便事件以降の1993年の衆議院選挙で社会党の衆議院議員数は激減する事態に陥ります。

事件全貌は究明されず闇のままに

東京佐川急便から政界に流れたいわゆる佐川マネーで、金丸信や社会党の議員に流れた資金の額はごく一部のものとも言われています。社会党に資金が流れているなら他の政党も怪しくなりますし、自民党にしても金丸信だけというのは考えにくいことです。

東京地検の必死の捜査にもかかわらず、他の大物議員や闇資金のルートが解明されることはなく、東京佐川急便事件は金丸信という自民党の超大物議員の議員辞職、政界引退をもって闇に葬られる結末となってしまいました。

東京佐川急便事件の影響

東京佐川急便事件は、ほぼ同時期に露見したリクルート事件やその前のロッキード事件などと並んで、国民に政治不信を招き政界に多大な影響を与えた事件です。特にこの事件は政権中枢の自民党だけでなく社会党にも波及して、政界の暗部をさらけ出した事件と言えるでしょう。

東京佐川急便事件で失脚した金丸信無き後の自民党の内部抗争や、数々の新党結成による政界再編などは、バブル崩壊後の長い不安定な政局につながっていきます。これらの東京佐川急便事件による影響を具体的に見てみましょう。

金丸信失脚後の一六戦争

自民党の竹下派には7奉行と言われる幹部がいて、小沢一郎と梶山静六はもともと仲が良くありませんでした。東京佐川急便事件で金丸信のヤミ献金が発覚した時も、検察への徹底抗戦を主張する小沢と、早期の事態収拾を図る梶山とで対立しました。

金丸信が失脚後、後継の竹下派会長の座を巡っても二人は対立し、結局梶山が推す小淵恵三が会長に就任し、これを不服とした小沢は羽田孜らと羽田派を旗揚げして竹下派は分列します。

小淵会長を実現して自民党幹事長になった梶山は、自民党内の小沢派を反主流派に追いやり、結局小沢らは新生党を立ち上げて自民党を離党し、その後新進党を旗揚げすることになります。いろいろな新党が結成され政界再編の流れが動き始めます。

55年体制の崩壊ー政界再編・新党結成の流れ

55年体制とは、1955年の鳩山一郎内閣以来続いていた与党自民党、野党社会党という構図の政治体制を言います。東京佐川急便事件前後から多くの新党が結成され、1993年、日本新党の細川護熙を首班とする8政党・会派連立による細川内閣が成立して55年体制は崩壊します。

日本新党、新生党、新党さきがけなど、添付図に示すように乱立と言っても良いような新党ブームになります。多くの党は「政界再編」や「政治改革」を呼号していましたが、国民の目からは政党の違いなどが解りにくいところもあったでしょう。

細川政権の誕生

自民党の宮澤内閣の後を受け1993年に発足した細川内閣は、8政党・会派による非自民・非共産党の連立内閣です。度重なる自民党政権の事件や不祥事から、「自民党が悪い」、「政権交代を」という声が高まるなか誕生した細川内閣の支持率は70%を超えるものでした。

ただ、寄せ集め内閣での各党の対立などが表面化し、細川首相の東京佐川急便からの献金疑惑も浮上し、自民党からの激しい糾弾で国会が空転する事態となって、1994年4月に細川首相が辞任、9カ月の短命政権に終わりました。

細川首相にも東京佐川急便からの献金疑惑が

細川首相の東京佐川急便からの献金疑惑については、「既に返済している」と釈明を繰り返しましたが、自民党の追及が厳しく国会が空転する事態を招き、細川内閣退陣の一因になりました。自民党は返済が済んでいることを承知のうえで攻撃したという情報もあります。

細川護熙は2014年に東京都知事選に立候補した時にも、20年以上前の東京佐川急便疑惑が取り沙汰され対立陣営から追及されました。この時は証拠を公表して選挙に臨んでいます。東京佐川急便疑惑が敗因ではないでしょうが、都知事の椅子には届かない結果で終わりました。

細川護熙を追及した元自民党の参議院議員村上正邦会長に拠れば、佐川急便からの借り入れ問題は「デッチ上げ」だったという。自民党は「細川が借入金を佐川にしっかり返済していた」ことを知っていた。しかし、「倒閣できる」と考えたため、参議院の予算委筆頭理事という立場を用いて、細川護熙を国会で追及した。また「(無実を)証明する貸し付け記録」も出てきていたが、「(佐川急便に)借りっぱなしになっている自民党の大物たちの名前が(貸し付け記録に)連なっていた」ため出せなかったとある。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BD%90... |

東京佐川急便事件のその後

東京佐川急便事件は、リクルート事件やロッキード事件とともに政界の腐敗、暗部を国民にさらけ出して政治不信を招き、その後の連立内閣や短命内閣など不安定な政局につながった事件です。現在の長期安定政権はその裏返しの現象と言えなくもありません。

東京佐川急便はその後佐川急便に吸収されますが、事件以降10年間の会社再建の活動が「佐川急便再建3650日の戦い」に著されています。その後、奈良佐川急便事件や不法駐車身代り出頭事件なども起こしていますが、現場の社員は一丸となって改善・改革に努めていることでしょう。

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