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【市川一家4人殺人事件とは?】関光彦死刑囚や被害者少女のその後
2019年03月29日

【市川一家4人殺人事件とは?】関光彦死刑囚や被害者少女のその後

市川一家4人殺人事件は25年以上前の事件ですが、犯人関光彦によって被害少女の一家4にが惨殺されるという衝撃的な少年犯罪事件でした。この市川一家4人殺人事件の詳細と、犯人関光彦の生い立ちや被害少女のその後などを関連事項を含めて紹介します。

市川一家4人殺人事件とは?

市川一家4人殺人事件は1992年、3月5日から6日にかけて千葉県市川市で起きた強盗殺人、強盗強姦などの事件です。被害家族は5人家族で、生き残った被害少女の他4人が絞殺や刺殺などで殺害された凄惨な事件です。

事件現場で逮捕された犯人の関光彦は当時19歳で、少年法の適用になるので重罪は免れるだろうという思惑が関光彦にはありました。しかし、最高裁で下された判決は死刑判決で、事件発生から25年後の2017年の12月に死刑が執行されました。

市川一家4人殺人事件は、少年犯罪としては平成史上稀にみる残忍な凶悪犯罪事件として社会に衝撃を与えましたが、死刑や少年法の在り方についても論議を呼んだ事件です。

市川一家4人殺人事件の現場は?

市川一家4人殺人事件の現場は千葉県市川市幸2丁目にある9階建てのマンションで、その8階で事件は起こりました。最寄駅の地下鉄東西線行徳駅から南東約2km、東京湾に面した首都高速湾岸線千鳥町出入口付近に位置しています。

犯人の関光彦は市川一家4人殺人事件の前の2月12日に、事件の被害者の少女に対して強姦致傷事件を起こしています。この時、被害少女の所持品の生徒手帳から少女の住所と氏名などを控えていました。

その後関光彦は、市川一家4人殺人事件の犯行に至る前に、その住所や電話番号などから被害者家族の住むマンションの所在や生活パターンなども調べていたことが解りました。

空き巣目的の犯人関光彦が被害少女の家族4人を殺害

この市川一家4人殺人事件で殺害されたのは、生き残った被害少女の家族で、少女の祖母と父、母、妹の4人です。4人は一挙に殺害されたのではなく、3月5日の午後4時30分ごろから6日の朝6時45分ごろまでの約14時間の間に殺害されています

犯人関光彦は200万というお金が必要になって、空き巣目的でマンションに午後4時30分ごろ侵入しますが、在宅していた被害少女の祖母ともめて殺害してしまいます。

それから朝までのあいだに、帰宅してきた被害少女と母のうち母を、次に父を殺害し、その後、一旦外出もして朝マンションに戻り、泣き出した被害少女の妹も最後には殺害してしまいます。

市川一家4人殺人事件の詳細

この市川一家4人殺人事件は、4人もの命が奪われ、その殺害の状況が残虐で凄惨で、言葉には表せないような凶悪な殺人事件です。犯人関光彦の罪状は余罪を含めて強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷の7つの罪になっています。

4人の殺害の合間には被害少女を何度も強姦するという犯人の信じられないような異常行動もあり、市川一家4人殺人事件を取り扱うメディアのタイトルには「閲覧注意」の文字がよく付けられています。

衝撃的な事件の詳細を目のあたりにすることで、事件内容が断片的にトラウマになってしまう人もいるからでしょう。以下に、詳細を紹介していきます。

発端は被害者少女が犯人関光彦に強姦された事件

市川一家4人殺人事件が起こる前の2月12日に、被害少女は関光彦による強姦致傷事件に遭っています。この事件は関光彦が市川一家4人殺人事件の被害者一家宅を知るきっかけになり、市川一家4人殺人事件の発端になったと言える事件です。

被害少女は県立高校の1年生で、夜遅く自宅で勉強していましたがシャープペンの替え芯が切れてコンビニへ買物に行った帰り道に、車を運転する関光彦に故意に衝突され怪我を負います。

関光彦は被害少女を病院に連れて行った後、被害少女を脅して自身のアパートに拉致し2度にわたって強姦します。この時に被害少女の生徒手帳から住所などを控え、その後の市川一家4人殺人事件に悪用することになります。

市川一家4人殺人事件の被害者家族の構成

市川一家4人殺人事件の被害家族の構成は、当時15歳の被害少女を含めて5人で、全員、市川幸2丁目のマンションに住んでいました。

被害少女の父は事件当時41歳でフリーランスのカメラマンで、雑誌の出版などを行なう会社を行徳駅前に構えていました。結婚した妻の連れ子が被害少女です。

被害少女の母は事件当時36歳、32歳の時に被害少女を連れて再婚し、夫と雑誌の出版などを行なう会社の経営にあたっていました。

被害少女の妹は被害少女の母が再婚後に生まれた子で、被害少女の異父妹にあたります。事件当時4歳で市川市内の保育園児でした。また、被害少女の祖母は被害少女の父の実母で、事件当時83歳でした。

市川一家4人殺人事件の犯人関光彦の殺害手口

市川一家4人殺人事件での犯人関光彦の殺害方法や犯行の手口はどのようなものだったでしょうか。関光彦が被害者のマンション宅に侵入するまでの様子も解っています。

関光彦は市川一家4人殺人事件の前に、何回か被害者宅に時間を変えて電話をかけています。被害者宅の在宅状況を探るためです。その結果、午後は留守か祖母が1人でいることを把握していました。

また、何回かマンションに行って被害者宅がある8階まで行き、部屋番号や1階の防犯カメラの位置などを確認しています。事件当日は公衆電話から被害者宅に電話を入れ、誰も出ないので留守だと思い被害者宅のマンションに車で向かいます。

市川一家4人殺人事件の最初は被害少女の祖母が

市川一家4人殺人事件の犯人関光彦の殺害手口
関光彦はマンションの防犯カメラの視角を避けて8階まで行きます。インターフォンを鳴らしますが応答がなく、玄関ドアも施錠されていませんでした

関光彦は状況から、留守と確信して忍び入り、玄関横の部屋で被害少女の祖母が寝ているのを確認し、居間のほうで現金や預金通帳などを物色します。

しかし、金目の物が見つからないので寝ている祖母を蹴り上げて現金や通帳を出すよう脅します。祖母は財布から8万円を出して、これをやるから帰れと毅然と対応し、関光彦の顔に唾を吐きつけもしました。

関光彦は激昂し祖母を突き倒して馬乗りになると、電気コードで首を絞め窒息死させてしまいます。市川一家4人殺人事件での一人目の犠牲者です。

次に被害少女の母

2番目の被害者は被害少女の母です。夜7時過ぎに被害少女と母が帰宅します。関光彦は部屋の中で待ち伏せをし、2人の退路を断つように立ち塞がって包丁を突きつけて脅しますが、母親は怯えることもなく何をするのかと勝気に臨みます。

関光彦は反撃される恐れを感じて、2人を床にうつ伏せにさせ抵抗できないようにしますが、母親のほうが何か策を練りそうだと心配し、動けないようにしようと左腰部から背中を立て続けに計5回包丁で突き刺して失血死させてしまいます。

その後、母親を別部屋に移動させたり、床の血痕などを拭き取るなどの証拠隠滅を恐怖におののく被害少女に手伝わせています。

被害少女の妹が帰宅し一緒に夕食も

被害少女の母を殺害してから15分後、保母に連れられて被害少女の妹が保育園から帰ってきます。被害少女が対応して保母に気付かれることなく妹を部屋に入れます。

関光彦は被害少女に夕食を作らせ、妹と3人で食事をとります。その後、妹を祖母の部屋に行かせ、テレビを観させて眠らせます。

被害少女の父親が帰ってくるのが11時過ぎと解っていたので、関光彦は気分転換に被害少女を強姦しようと考えます。極度な恐怖で抵抗不能な状態になっていた少女を包丁で脅して寝室に連れ込み強姦してしまいます。

被害少女の父も

被害少女の父は予定より早く9時40分ごろ帰宅します。寝室にいた関光彦はあわてて服を着て、居間に入ってきた父親の背後から左肩を包丁で一突きして動きを封じます。

関光彦は現金、通帳を出すよう脅し、現金16万円と額面約360万円の預金通帳を被害少女に集めさせます。さらに、勤務先の事務所に別の通帳があることを聞き出すと、被害少女に事務所へ通帳を用意しておくように電話させます。

日付が変わって6日の0時30分ごろ、関光彦は少女を連れて勤務先の事務所に向かおうとしますが、父親から警察に通報される恐れがあるので、すでに瀕死状態となっていた父親の背中を強く1回突いてとどめを刺します

犯行の合間にも犯人関光彦は被害少女を

3月6日午前0時40分ごろ、関光彦と被害少女は行徳駅前にある父親の事務所に行き、被害少女がヤクザにお金を要求されていると宿直従業員に話し、額面合計約65万円の通帳や印鑑を入手します。

その後、関光彦は被害少女を車に乗せ、東京湾沿いにあったラブホテルに少女を連れ込みます

そこで少女を強姦した後、関光彦は4時間近く熟睡しますが、眠りから目覚めると再び少女を強姦します。この市川一家4人殺人事件での3度目の強姦です。

最後は被害少女の4歳の妹を

関光彦と被害少女は朝6時30分ごろ、マンションの被害者宅に戻ります。関光彦は、すでに3人が惨殺された凄惨な部屋から友人に電話をかけたりしていましたが、被害少女の妹が目を覚まして泣き始めます。

泣き声で近隣に犯行が発覚するのを恐れて、妹の背後から包丁で刃先が体を貫通するほどの強い力で突き刺し、失血死で殺害してしまいます。

被害少女は、なぜ妹まで殺すのかと抗議しますが、逆上した関光彦に包丁で左上腕や背中を切り付けられ全治2週間の怪我を負うことになります。

犯人関光彦逮捕の経緯

犯人関光彦逮捕の経緯
関光彦と被害少女が父親の事務所に行った時に対応した従業員が不審に思い派出所に連絡し、午前1時30分ごろに警察署員とマンションを訪ねています。しかしこの時は、照明も消えていて応答もなかったので不在だと考え引き揚げています

従業員はやはり不審に思い、朝8時過ぎに被害者宅に電話に入れると被害少女が「おはよう」と言ったきり沈黙してしまったので、異常事態を確信して再度110番通報します。

従業員と警官が被害者宅を訪れ、隣の住民の部屋からベランダ伝いに窓から被害者宅に踏み込みます。凄惨な殺人現場のなかで関光彦と被害少女が茫然としていて、関光彦が逃げようとするところを銃刀法違反の現行犯で逮捕します。

市川一家4人殺人事件の犯人関光彦の生い立ち

市川一家4人殺人事件という残虐で凄惨な事件を引き起こした凶悪犯人、関光彦はどのような生い立ちで育ったのでしょうか。

少年時代の家庭環境や、荒れた青年時代、市川一家4人殺人事件を起こす前の生活状況などを紹介しましょう。かなり特殊な家庭の状況が、凶悪事件を引き起こした関光彦の人格の形成に大きな影響を与えていることが解ります。

関光彦の父親の家庭内暴力

関光彦の父親の家庭内暴力
市川一家4人殺人事件の犯人関光彦は1973年1月生まれ、母は短大を卒業後、電気機器会社の会社員だった父と結婚し、その長男として生まれました。5歳年下の弟が一人います。

父は生来の怠け者で賭け事や酒、女遊びに耽り夫婦喧嘩も日常茶飯事という家庭環境下で関光彦は少年時代を過ごしています。

父が闇金融に約3億円の借金を作ってしまったので、母と関光彦と弟は夜逃げ同然で家を出ていくことに。その後、母は父と離婚、3人は食べるのがやっとの極貧生活に転落します。

家庭崩壊の元凶となった父に対する関光彦の恨みは強く、「できることなら体中の血液から父親の遺伝子・細胞を残らず人工透析で取り除きたいほどだ」という言葉に表れています。

荒れ狂った青年時代

母は女手一つで2人の子供を育て、祖父からも援助されるようになって、関光彦が中学生になってからは不自由なく暮らせるようになりました。

このころから不良少年たちと付き合うようになり、飲酒・喫煙・喧嘩・恐喝・窃盗など非行の度合いが一気にエスカレートします。

高校は堀越高等学校普通科に進み、1年時はクラス委員を務め、無欠席で成績上位をキープしていました。しかし、地元では相変わらず喧嘩に明け暮れ、飲酒・喫煙などを日常的に行なう生活でした。

高校は2年で中退し、祖父が営業する鰻屋の手伝いをすることになりますが、店の売上を持ち出したりして、さまざまな非行に手を染めていました。何件も警察沙汰の事件を起こしています。

事件前は結婚して子供も

祖父の鰻屋を辞めてから、母や祖父の援助でアパートでの一人暮らしや、車を購入します。

フィリピンパブのマニラ出身のホステスと、1991年10月に結婚します。その後、1992年1月に妊娠が判明し女性はフィリピンに帰ってしまいます。

1992年2月6日:フィリピン人ホステスを自宅に監禁、性的関係を持ち、暴行。
2月11日:帰宅途中の女性を乱暴、自宅に連れ込み強姦。
2月12日:市川一家4人殺人事件の被害少女への強姦致傷。
2月12日夜:2月6日の事件で暴力団組長から200万円を要求される

200万円を工面するために傷害・恐喝・窃盗事件を2件起こし、その後、3月5日の市川一家4人殺人事件につながっていきます。

市川一家4人殺人事件の裁判

市川一家4人殺人事件の裁判
市川一家4人殺人事件の裁判は、犯人関光彦が19歳で少年法適用年齢であったこともあり、精神鑑定や家庭裁判所送致などの手続きもありましたが、刑事裁判として千葉地方裁判所で裁かれることになります。

千葉地裁での第一審が1992年12月に始まり、1994年8月に死刑判決が下されますが、被告人側は即日控訴し、その後、東京高裁での控訴審、最高裁での上告審を経て、2001年12月に関光彦の死刑判決が正式に確定します。市川一家4人殺人事件発生から9年半後の確定判決です。

犯人関光彦19歳は少年法犯罪?

関光彦は当時19歳ですから、少年法の適用年齢です。市川一家4人殺人事件を起こす前にも関光彦はいくつかの犯罪を犯していますが、少年なので罪を犯しても重罪にはならず少年院送致程度だろうと考えていたと言うことです。

少年法では、18歳未満の者に対しては「死刑をもつて処断すべきときは,無期刑を科する」とされていますが、18歳、19歳の年長少年については死刑の適用が可能とされています。

市川一家4人殺人事件で死刑判決になるとは、関光彦は考えてもいなかったことでした。この事件は、犯人や被害者が未成年であったこともあり、少年法や死刑制度などが論議された他、犯人や被害者の実名報道の是非なども問われた事件です。

市川一家4人殺人事件の最高裁までの判決

市川一家4人殺人事件の裁判は一審の千葉地裁から、東京高裁、最高裁まで判決は変わらず死刑でした。

検察側は、犯行は残忍・冷酷・卑劣の極みであって誠に悪質であり、情状酌量などの余地は一片も見出すことはできないとして死刑を求刑しました。

弁護人側は、被告人関光彦は心神耗弱状態だったこと、殺意についても未必の故意であり確定的殺意ではないことなどを主張し、死刑を回避して情状酌量による無期懲役の適用を求めました。

結果、いずれの裁判においても検察側の求刑がほぼ認められての死刑判決となりました。

死刑判決から死刑執行まで

死刑判決から死刑執行まで
関光彦の死刑が最高裁で確定したのは2001年12月3日で、市川一家4人殺人事件発生から9年9カ月、関光彦は28歳になっていました。

死刑が執行されたのは、それから16年後の2017年12月19日、関光彦44歳の時のことです。死刑執行までの間に関光彦の残した手記の内容や、再審請求の状況などについて紹介しましょう。

少年犯罪での死刑執行は永山則夫以来2例目

少年犯罪での死刑囚に対して死刑が執行されたのは、1997年に永山則夫の死刑が執行されて以来20年ぶり、2例目のことです。永山則夫は、1968年から1969年にかけて半年の間に4人を殺害した連続ピストル射殺事件の犯人で、犯行当時19歳でした。

関光彦死刑囚は死刑執行時は、再審請求中で死刑執行は免れると考えていましたが、死刑執行命令を下した上川法務大臣は「再審請求中だからといって死刑を執行しないという考え方はとっていない」と述べています。

死刑制度への論議もありますが、死刑が確定している少年事件は下表にあるように、市川一家4人殺人事件の他に3件あって今後の対応が注目されます。

再審請求も

市川一家4人殺人事件では、死刑が確定した2001年の12月から約1年後に関光彦死刑囚側は裁判の再審請求をしています。これだけの極悪非道の事件で減刑の再審請求とは何事かという世論も見られました。

再審請求の理由は、事件当時は心神喪失状態で責任能力は認められないという根拠に基づいています。死刑制度を廃止する活動をしているグループなどの後ろ盾などもあったことでしょう。

市川一家4人殺人事件での再審請求は何回か棄却され、死刑執行当時は東京高裁への再審請求抗告中の時でした。以前は、再審請求中の死刑囚に対する死刑執行は避けられる傾向が強かったのですが、今は再審請求による抑止力はほとんどありません

関光彦の獄中の手記では

関光彦死刑囚が獄中で外部の人と接触したのはごくわずかな人に限られています。その人たちとの手紙のやり取りなどのなかで、関光彦の心境を垣間見ることができます。

関光彦への面会や手紙のやり取り、関係者への取材などを通して「一家四人惨殺犯の告白19歳」という書籍を著したのが永瀬隼介です。また、中日新聞の記者、瀬口晴義も面会や手紙のやり取りの内容を記事にしています。

手記の内容については、永瀬隼介の書籍をおすすめしますが、死刑囚の心の不安定さからか一貫した内容ではなく、死の恐怖を前にした乱れた心境が表れています。

被告人Sは最高裁判決期日の2001年12月3日までに中日新聞社に手記を寄せた、判決を伝える『中日新聞』・『東京新聞』両紙それぞれの2001年12月4日朝刊記事で以下のような内容が掲載された。
・「千葉地裁・東京高裁と二度の死刑判決を受けたことで『生き恥を晒し続けて自分の家族にさえ迷惑をかけるくらいなら早く死んで消えてなくなりたい。それで早く生まれ変わって新しくやり直す方が楽だろう』と、安易な自暴自棄に陥っていたころもあった」
・「しかし僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われたことで『「生きていなければ感じられない苦しみ」を最後の瞬間まで味わい続けよう』と改めて決意した。最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」
・「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば『この世に生まれてきたことに少しでも意味があった』と言えるかもしれません」

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E5%25B8%2582%25E5%25B7%2... |

死刑執行での関光彦の最後の言葉

市川一家4人殺人事件の死刑囚関光彦の死刑執行前の最後の言葉や、死刑執行の直前の様子などは明らかにされていません。関光彦と死刑執行前も定期的に面会していた一場順子弁護士との面会でのやり取りなどが参考になるでしょう。

死刑執行が近いころ、「4人がいつもくっついていて、おまえのことを許さないと言っているようで苦しい」と言っていたのが有名ですが、「申し訳なかった」という謝罪の言葉ではありませんでした

一場順子弁護士には、「僕のことは先生が知っていてくれるから、もう、いい」と穏やかな表情で言い、最後の言葉というか遺言は、「裁判記録は先生の元へ」という一言だったということです。

犯人家族や親族のその後

犯人家族や親族のその後
市川一家4人殺人事件の犯人関光彦の家族や親族は事件後どのような暮らしを過ごしているのでしょうか。関光彦の面倒を良くみたり、ある時は突き放すようなこともあった祖父は?経営した鰻屋はどうなったでしょうか。

女手一つで関光彦を育てた母は、また5歳下の弟はどうなったでしょうか。事件の性質もあってか、加害者家族などの情報はあまり多くはありません。数少ない情報のいくつかを紹介しましょう。

有名な鰻屋だった祖父は?

関光彦の母方の祖父は、孫を可愛がり面倒も良くみていましたが、市川一家4人殺人事件が起きてからは、「自分はもう関わりたくない。光彦は法に従えばいいんだ」と非難して切捨てています。また、ことのほか孫を可愛がっていた祖母は1995年、結審を待たずに他界しています。

経営していた鰻屋は地元では有名な繁盛店でしたが、事件後は、「あの店に金を出したら殺人鬼の弁護士費用になる」というような風評がたって客足が遠のき、閉店に追い込まれています。

関光彦の母や弟は

関光彦の母は、週に1回の頻度で東京拘置所に面会に行き、衣服や嗜好品、書籍などを差し入れていました。書籍は、関光彦が出所できた場合に役に立つような内容のものが多かったということです。

弟は関光彦の5歳年下で、顔も体格も兄そっくりだそうですが、性格は穏やかで礼儀正しく兄とは真反対の青年になっているということです。

母親は、裁判が進行中の時の取材に対して、「もうそっとしておいてください。あの子も今は反省しているんですから」と泣きながら取材を断っています。被害者もそうですが加害者家族もそっとしてあげたいですね。

唯一生き残った被害者少女の現在は?

市川一家4人殺人事件でただ一人生き残った被害少女は今どうしているでしょうか。1992年の事件当時15歳ですから、現在は42歳でしょうか。

凄惨な事件の被害者なので心に深い傷を負っていることでしょう。被害者という立場上あまり多くの情報はありませんが、判明していることを紹介しましょう。

美術大学を卒業し結婚して海外へ

美術大学を卒業し結婚して海外へ
市川一家4人殺人事件の後、一旦は両親の知人宅に身を寄せ、その後、熊本県にある母親の実家で暮らしています。そこで高校を卒業して、小さいころから好きだった美術を学ぶために熊本を離れ、美術系の大学に進んだということです。

その後、関光彦の死刑判決確定後の2004年に、かねてから交際していたという男性と結婚して、現在はヨーロッパで暮らしているそうです。忘れたくても忘れることはできない事件でしょうから、日本とは関係のない外国で暮らすというのは良い選択でしょう。

ヨーロッパは両親の夢だったところです。これからも幸せな暮らしができるよう祈りましょう。

市川一家4人殺人事件の残した課題は?

市川一家4人殺人事件は史上まれにみる凶悪な少年犯罪で、死刑確定、執行後にもいくつかの課題を投げかけた事件です。

少年犯罪での死刑という極刑の適用の是非については、市川一家4人殺人事件以前から永山則夫の連続ピストル射殺事件での適用などもあって肯定化されつつあります。

また、少年犯罪における実名報道については、SNSが発達し、加害者だけでなく被害者の実名までも露わになってしまうような現在なので、報道規制などの適切なルール化や運用などが望まれるでしょう。

現在もいろいろな凶悪事件がニュースなどで賑わっています。市川一家4人殺人事件のような凄惨で残虐な少年犯罪事件が二度と起こらないようにと願うばかりです。

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