テルアビブ空港乱射事件――岡本公三とは?
事件現場で取り押さえられた犯人は、「岡本公三」と名乗る25歳の日本人青年でした。岡本公三の供述や首謀者グループの声明などから、この犯行がPFLP(パレスチナ人民解放戦線)と無名のテログループ「日本赤軍」によるもの、と判明します。
しかし多くの日本人は、この「テルアビブ空港乱射事件」をあまり鮮明に記憶していません。3か月前に起きていた「連合赤軍・浅間山荘事件」や、わずか2週間前に国民を沸かせた「沖縄返還」の印象があまりにも強すぎたためです。
「テルアビブ空港乱射事件」がどのような経緯で発生したのか。まずはその詳細を、じっくりと見ていきましょう。
衝撃の無差別自爆テロ――犯人は日本人だった
昭和47年(1972年)5月30日、同空港カウンター前に並ぶプエルトリコの観光客グループや空港職員らに向けて、突如として自動小銃の弾丸が乱射されます。
飛び散るガラス片、次々と凶弾に倒れていく人々――。ロッド国際空港は一瞬にして血の海と化し、26名が死亡、73名が重軽傷を負う大惨事となりました。
警備員の反撃の末に取り押さえられたのは、日本人青年・岡本公三(当時25)。戦争を知らずに育った若い日本人の凶行を、世界中のメディアは大きな驚きをもって伝えました。
この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され、73人が重軽傷を負った。死傷者の約8割が巡礼目的で訪れたプエルトリコ人であった。
死者のうち17人がプエルトリコ人(アメリカ国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。犠牲者の中には、後にイスラエルの大統領となるエフライム・カツィールの兄で著名な科学者だったアーロン・カツィールも含まれている。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A2... |
岡本公三の共犯者2名は現場で死亡
当時、警視庁刑務部参事官だった佐々淳行氏の回想によれば、死亡した二人は顎の下に手榴弾を当てて、顔と指紋をすべて吹き飛ばすという、PFLP指導の自爆方法を忠実に実行した、といいます。
無差別に観光客を打ち殺す「無差別テロ」も前代未聞でしたが、実行犯が自爆し、首謀者がいっさい姿を現さない「自爆テロ」を確立したという意味でも、テルアビブ空港乱射事件は大変ショッキングな出来事でした。
死んでオリオンの星になろうじゃないか
犯行前、奥平剛士は2歳年下の岡本公三と安田安之に向って、こう言ったといいます。この発言の背景には、同年2月の「浅間山荘事件」で自滅した「連合赤軍」グループへの激しい憤りがありました。
こうして強い決意をもって自爆テロに参加した岡本公三でしたが、奥平と安田が自爆を遂げた一方で、なぜか岡本公三だけは生き残り、イスラエル当局に取り押さえられてしまいました。
なぜ岡本公三だけが生き残ったか
「岡本公三だけは映画の見過ぎでね、ジェット旅客機に手榴弾をぶつければ紅蓮の炎を上げて爆発炎上するというね、これ、映画の見過ぎなんです。現実の旅客機なんていうのは、そんな簡単に手榴弾で爆発するようなもんじゃないです」
「爆発炎上する旅客機に身を投じて自殺しようということで、最後の一発の武器も使っちゃうんですね。それで、捕らえられる。生け捕りになるんです」
こうして一人生き残り、岡本公三は逮捕されました。そして、彼が生きて捕まったことが、テルアビブ空港乱射事件を新たな展開へと導きました。
PFLPと重信房子による声明――「日本赤軍」結成
犯行動機は、3週間前の5月8日に失敗した「サベナ航空ハイジャック事件」の報復。イスラエル政府に逮捕されている317名の仲間の解放を要求したハイジャックでしたが、イスラエル当局に制圧され、その報復としてロッド国際空港を襲撃することにしたのです。
パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは日本赤軍の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A2... |
彼らはこの事件を機に、「日本赤軍」を自称するようになります。つまりテルアビブ空港乱射事件の時点では「日本赤軍」という団体は存在しておらず、この事件は「日本赤軍の前史に属する事件」とされています。
AK-47
— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) 2017年11月21日
ソ連製の自動小銃。
冷戦期の東側諸国を代表する兵器でもある。
日本赤軍がPFLPの下で軍事訓練を行っていた際に使用していたことが、岡本公三の証言で明らかとなっている。 pic.twitter.com/msVvklsLaV
岡本公三とは――テロリストか、それとも英雄か
岡本公三の略歴
項目 | 説明 |
---|---|
名前 | 岡本公三(おかもと こうぞう) |
生年月日 | 1947年12月7日 |
出身地 | 熊本県葦北郡芦北町 |
出身校 | 鹿児島大学農学部林学科 |
昭和45年(1970年)3月末、次兄の岡本武を含む共産主義系・武装革命集団「赤軍派」9名による「よど号ハイジャック事件」が発生し、岡本公三は兄の活動に強い影響を受けました。
さらに1971年、鹿児島大学で上映された『赤軍――PFLP・世界戦争宣言』に共鳴し、上映運動を展開していた「赤バス隊」に参加、武力行使をいとわない新左翼活動に身を投じたのです。
そして翌年(1972年)3月、1年前から海外基地を作るためにレバノンに渡航していた重信房子ら「赤軍派」に合流しました。
「新左翼」「赤軍派」とは?
東大や京大で「マルクス主義」の講義が盛んだったこともあり、戦後日本のエリート学生の中には、義勇軍としてスタートした旧ソ連陸軍の名称「赤軍」をシンボル視して、資本主義からの解放闘争を主張する者が現れ、闘争を呼びかける学生運動が激化していきました。
「新左翼」とは、暴力革命路線を放棄した既成の左翼運動を批判し、武力行使で理想社会を実現しようとした過激派のことで、「赤軍派」はその一部、ということになります。
マルクス主義は、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF... |
パレスチナの英雄となった岡本公三
さらに、日本赤軍グループ3名が実行した「無差別自爆テロ」は、アラブやペルシャの反米勢力の間で「テロの定石」として扱われ、頻繁に「無差別自爆テロ」が発生していきます。
(memo)岡本公三ら日本赤軍が初めから死を覚悟した自殺的攻撃を仕掛けた事はイスラム教の教義で自殺を禁じられていたアラブ人にとっては衝撃的であり、以降のイスラム過激派が自爆テロなどをジハードであると解釈するのに影響を与えたとされている。
— (memo) (@____mome) 2017年10月6日
"世界武力革命"に陶酔した学生たちの暴走
それは、昭和44年(1969年)の「東大安田講堂事件」と、昭和45年(1970年)の「よど号ハイジャック事件」です。
武装を正当化した最初の事件「東大安田講堂事件」
事件は昭和44年(1969年)1月18日から19日にかけて発生しました。とは言っても、この二日間は一年近くにわたって続いた闘争の最終局面にすぎません。
東大安田講堂事件の背景
そんな中、授業料値上げ阻止や学園民主化を訴える過激派組織・全学共闘会議(全共闘)と、武力行使を辞さない新左翼が東大安田講堂を繰り返し占拠。学生主導のストライキが行われるなどして、東大総長や全学部長が辞任に追い込まれていきました。
昭和44年(1969年)1月中旬、佐藤栄作政権はついに警察力の動員を決断。占拠を続ける全共闘の学生らと、激しい攻防戦を繰り広げました。
国外に拠点を求めた「よど号ハイジャック事件」
当時の学生運動でもっとも過激だったとされる「赤軍派」(共産主義者同盟・赤軍派)の一部は、活動の継続には国外に活動拠点を作って世界革命戦争を起こし、実力をつけたうえで日本革命を実現する、という「国際根拠地論」を検討し、実際に、海外にメンバーを送り込む計画が進行します。
計画実行の直前、赤軍派議長の塩見孝也が公安警察に別件(大菩薩峠事件。首相官邸襲撃を計画し大菩薩峠で予行演習をしていた)で逮捕されたことにより、国外亡命実行グループのリーダー田宮高麿(たみや たかまろ)は計画の前倒しを決断。
昭和45年(1970年)3月31日、日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮への亡命を図ったのです。
1970年(昭和45年)3月31日、羽田空港発板付空港(現:福岡空港)行きの日本航空351便(ボーイング727-89型機、愛称「よど号」)が赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。
犯人グループは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。よど号は福岡空港と韓国の金浦国際空港での2回の着陸を経た後、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%A9%E5%8F%B7... |
「よど号事件」のメンバーに岡本公三の実兄も
熊本県出身。熊本県立熊本高等学校卒業。京都大学農学部中退。1968年に東大安田講堂事件に参加。1970年に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。
1976年に結婚。当初、結婚相手は現地の朝鮮人女性と発表されていたが、後に高知県出身の福留貴美子であることが確認された。
よど号メンバーの妻のほとんどが北朝鮮の思想に共感を持っていたことが考えられる中、福留のみ親北朝鮮思想が確認されておらず、一部には北朝鮮に拉致されたとする見方もある。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E6%AD%A6 |
「連合赤軍」と「日本赤軍」の誕生(1971年)
特に「よど号ハイジャック事件」では、実行犯グループが亡命した北朝鮮が、彼らの理想とかけ離れた、個人崇拝主義の独裁国家(スターリン主義国家)であることが露見したため、「国際根拠地論」は雲をつかむような空想話として説得力を失いました。
しかし「国際根拠地論」に望みを託し、パレスチナで世界革命戦争を起こそうと企てるグループがいました。その後、長く国外で活動を続けた、重信房子の率いる「日本赤軍」です。
日本赤軍を率いた美人カリスマ「重信房子」
同じくキリンビールに勤務しながら明大法学部の夜間部に通っていた遠山美枝子と意気投合したのち、本格的な過激派活動の渦に身を投じていったのです。
「よど号事件」の実質的失敗によって求心力が低下していた赤軍派の中で、弁が立ち、高い社交スキルをもつ重信房子は、それまでの後方支援の役割から脱却し、次第に具体的行動の中心人物になる決意を固めていきます。
「明大闘争」で活躍した学生で、著名な活動家になったのは二部の学生だった。
— 松本零士私設博物館・館長 ※個人による非公式なファンアカウント (@LeijiMuseum) 2018年12月11日
中でも有名で現在も服役中なのが、日本赤軍創立メンバーになった重信房子だろう。彼女は小学校教諭を目指して昼間は醤油メーカーに勤務し、夜間は明大で学んでいた。
日本赤軍によるハイジャックやテロ事件は周知の通りだ。 pic.twitter.com/3FbviYi1ug
奥平剛士と偽装結婚後、レバノンへ出国
そこで、尊敬していた京都パルチザンの活動家、奥平剛士と偽装結婚をして「奥平房子」と改名したうえで、昭和46年(1971年)2月、共にレバノンの首都・ベイルートへと渡りました。
渡航後の重信房子は、レバノン国内のベッカー高原にて「PFLP」(パレスチナ人民解放戦線)と連携し、本格的なテロ活動の機会をじっと狙っていたのです。
日本赤軍(にほんせきぐん、英語: Japanese Red Army)は、1971年から2001年まで存在した日本の新左翼系団体、世界同時革命を目指した武装集団。
日本革命を世界革命の一環と位置付け、中東など海外に拠点を置き、1970年代から1980年代にかけて多数の武装闘争事件(日本赤軍事件)を起こした。
1971年に共産主義者同盟赤軍派の重信房子、奥平剛士らが結成、2001年に重信自身が解散を表明した。アメリカ合衆国国務省の国際テロリズム対策室は日本赤軍を「国際テロ組織」と認定していたが、解散により認定解除した。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4... |
残虐極まりない"総括"で自滅した「連合赤軍」
同年12月、「連合赤軍」は榛名山に山岳ベースを構え、そこで合同軍事訓練を行います。連合赤軍のトップについた赤軍派出身の森恒夫と、革命左派出身の永田洋子を中心とした「総括」(暴力でグループ内の思想統一を図る)が横行。
この「総括」は日に日にエスカレートしていき、大晦日から翌年にかけての約2か月の間に、実に12名もの連合赤軍メンバーが粛清(殺害)されました(山岳ベース事件)。
連合赤軍(れんごうせきぐん)は、1971年から1972年にかけて活動した日本のテロ組織、新左翼組織の1つ。共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して結成された。山岳ベース事件、あさま山荘事件などの殺人事件、リンチ殺人を起こした。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4... |
パレスチナでの活動基地を立ち上げるためにレバノンに渡航する重信房子を見送り、その後は連合赤軍メンバーとして活動していましたが、「女を武器にして男性幹部に近づく」との理由で「総括」対象に。1972年1月7日、リンチを受けて死亡します。
逃亡の末に起きた「浅間山荘事件」
群馬県警はこれらの犯罪の捜査で、大規模な捜索隊を投入。ラジオで数日前まで使っていた山岳ベースが警察に発見されたことを知った幹部・坂口弘ら連合赤軍メンバーは、すぐさま逃走を図ります。
資金調達のために上京していた森、永田の両幹部は、山岳ベースに戻ったところを警察に発見され、そのまま逮捕されました。
激しい銃撃戦や、鉄球による山荘破壊シーンなどが生中継で全国放送され、民放各局とNHKを合わせた視聴率は89.7%にも達しました。つまり、ほとんどすべての日本人が、この事件の様子をテレビで視聴していたことになります。
残虐な活動を暴かれ、国内の新左翼活動は崩壊
リーダーの森恒夫は逮捕後、獄中で自殺しました。浅間山荘事件のメンバー5名のうち唯一の「赤軍派」だった坂東國男は、のちに日本赤軍の「クアラルンプール事件」の影響で超法規的措置による釈放・国外脱出を遂げ、日本赤軍に合流しました。
反西側陣営・国際テロを乱発した「日本赤軍」
写真の人物は、テルアビブ空港乱射事件の実行犯・奥平剛士の実弟、奥平純三です。京都大学工学部に在学中、兄の剛士が乱射事件で死亡。昭和48年(1973年)に建設会社に就職しますが、翌年、日本赤軍のメンバーとなり、実行部隊の中心人物になっていきます。
日本赤軍は世界のテロ組織の悪しき教科書になった
そしてこの活動は、パレスチナ問題や冷戦をめぐる複雑な政治状況により、事件発生当事国の政府に超法規的措置を取らせるなど、21世紀のテロリズムに深く影響する「テロの成功事例」を数多く残してしまいました。
事件 | 発生年月日 |
---|---|
テルアビブ空港乱射事件 | 1972年5月30日 |
ドバイ日航機ハイジャック事件 | 1973年7月20日 |
シンガポール・シージャック事件 | 1974年1月31日 |
在クウェート日本大使館占拠事件 | 1974年2月6日 |
ハーグ・仏大使館占拠事件 | 1974年9月13日 |
クアラルンプール事件 | 1975年8月4日 |
ダッカ日航機ハイジャック事件 | 1977年9月28日 |
ジャカルタ事件 | 1986年5月14日 |
三井物産マニラ支店長誘拐事件 | 1986年11月15日 |
ローマ事件 | 1987年6月9日 |
【ハーグ事件】
— Hickey☆Blog 🇯🇵 (@HickeyBlog) 2017年11月8日
昭和49年9月13日
日本赤軍は
オランダのハーグにある
フランス大使館を占拠し
フランスに収監中の
山田義昭の釈放と身代金を要求😒
オランダ政府は身代金を支払い
フランス政府は
超法規的措置で
山田を釈放したんだぞ😱#学校じゃ教えてくれない大事なこと pic.twitter.com/E50qe8RNj4
キッシンジャー氏暗殺計画
— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) 2019年3月9日
アメリカ外交に打撃を与えるため、キッシンジャー米国務長官を暗殺しようとした計画。丸岡修が拘置中に明かした。
具体的な時期は不明。訪日前後を狙って暗殺を企てたが、赤軍がレバノンから出国できず、失敗したという。 pic.twitter.com/h1Ut5XYhC5
日本赤軍のテロに屈した"西側陣営"日本政府
日本赤軍は、前年に偽造旅券の容疑で逮捕されていた奥平純三を含む9名のメンバーの釈放と乗客の身代金600万ドル(当時の為替レートで約16億円)を要求。
なおかつ、この要求を突き付けた実行犯の中には、「浅間山荘事件」の犯人で、クアラルンプール事件によって超法規的に釈放されていた坂東國男が加わっていたのです。
「人命は地球より重し」
さらにこの事件は、日本赤軍がハイジャック機の強行着陸先であったバングラディシュの政府を交渉役に指名したことで、バングラディシュ政府要人が対応に追われる隙を突いた軍事クーデターも発生しました(のちに鎮圧)。
日本赤軍のテロ行為に屈服し、他国政府にも多大な迷惑をかけた日本は、テロ対応の悪しき前例として、世界中から「テロリズム対策の反面教師」とみなされるようになりました。
ダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を呑み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと批判を浴びることとなった
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E8%B5%B3... |
1977年、昭和52年9月28日
— JS.Kenta (@Transverse_Line) 2018年9月28日
ダッカ日航機ハイジャック事件
日本赤軍が日本航空472便をハイジャックし、バングラデシュのダッカ国際空港に強行着陸した。その後日本赤軍は、身代金と服役および勾留中の9名の釈放を要求した。 pic.twitter.com/H0LfVk0IcV
岡本公三と日本赤軍の「その後」
岡本公三に拷問を施したのは、イスラエル諜報特務庁、通称「モサド」によるものと言われています。拷問の手法は、汚水を大量に飲ませる「水責め」、逆さ吊り、焼きゴテ等、さまざまな手法が噂されていますが、実際にどうだったのかは定かではありません。
しかし確実に言えることは、この拷問により、岡本公三は一時期、廃人同然になるほどの身体的ダメージを負って言語障害が生じるなど、死の間際まで責め立てられた、ということです。
故郷の海に天草四郎の歴史を思い、兄の影響を受け、映画に感化されて赤軍派の活動に身を投じた岡本公三にとって、25歳の初夏に犯した罪はあまりにも重すぎました。
岡本公三は紆余曲折を経て、レバノンに亡命
その後、岡本公三はレバノンに潜伏していましたが、平成9年(1997年)、岡本公三を含む日本赤軍メンバー5名が検挙され、禁固3年が言い渡されました。
3年後、出所した日本赤軍メンバー5名のうち4名は日本に送還されましたが、岡本公三のレバノン国内での名声はすさまじく、岡本公三だけはレバノンへの政治亡命が認められました。
1972年テルアビブ空港乱射でアラブの英雄となった岡本公三。「パレスチナと無縁の日本の若者が捨て身で実行したテロとして衝撃を与え、その後の自爆テロに繋がっていったとされる」。毎日独占インタビュー/岡本容疑者「一度は日本に帰りたい」 https://t.co/0uZ5S8UDQw pic.twitter.com/mZ2Nv9iISG
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2017年5月31日
重信房子の逮捕――日本赤軍のテロ活動に区切り
逮捕時、重信房子は報道カメラの前で両手の親指を立てるしぐさをしきりにやってみせ、「残念だけど頑張るから」と言い放つなど、日本赤軍による革命闘争への衰えぬ意欲を示してみせました。
「日本赤軍」解散宣言
逮捕の翌年、重信房子は獄中から「日本赤軍」の解散を表明しました。瞬く間に「世界で最も警戒される国際テロ組織」へと変貌していった日本赤軍の活動は、こうして区切りを迎えたのです。
日本赤軍リーダーの母と、パレスチナ人兵士の父の間に生まれたメイさん。難民キャンプを転々とし、自分が何者であるかを隠さなければならなかった子供時代を経て、「私は母とは違う方法で、問題解決の方法を探す」と語ります。https://t.co/h04rZ9RQDL
— 毎日新聞 (@mainichi) 2017年8月21日
いまも逃亡を続ける日本赤軍・元メンバーたち
日本赤軍の活動の中心にいた奥平純三は、いまではその生死すら定かではありません。連合赤軍に所属して「浅間山荘事件」を起こしたのち、クアラルンプール事件で超法規的措置により釈放された坂東國男も、日本赤軍の活動に参加後、いまだに所在が不明です。
「テルアビブ空港乱射事件」からスタートした日本赤軍の一連の事件は、今日でも世界中に影響を与えています。「解散宣言」が出されたとはいえ、日本赤軍にまつわる一連の出来事は、まだ本当の解決を見ていないのです。
#日本赤軍を支援か
— Tsuyoshi Kobayashi (@taiwankikajin) 2017年12月7日
左翼系人民新聞社の社長山田洋一を逮捕😬
不正に開設された口座は
国際指名手配中のテロリスト岡本公三を支援する団体が使用しており
岡本公三の亡命先であるレバノンで全額が引き出された
不当逮捕との声が上がるがテロリスト支援基金の存在が明らかに
https://t.co/Wc0wDAqn1G pic.twitter.com/GALpol4HlC
「日本赤軍」後の世界――21世紀のテロ事件史
パンドラの箱が開いた「アメリカ同時多発テロ」
さらにその17分後、今度は同ビル南棟に、同じくハイジャックされたユナイテッド航空175便(ボーイング757)が衝突。世界経済の象徴ともいえるツインタワーは、1時間ほど炎上を続けていましたが、まもなく南棟から順に崩壊しました。
テロ攻撃はニューヨークに留まらず、首都ワシントンでも国防総省(通称ペンタゴン)にも旅客機が突入、もう一機、国会議事堂を狙った旅客機は墜落しました(乗客がテロ阻止のためにコックピット内に進入したとも言われている)。
一連のテロは「9・11 アメリカ同時多発テロ」と呼ばれ、死者2996名(うち自爆テロ犯は19名)を出す大惨事となりました。
犯行グループはテロ組織「アルカイダ」か
なぜなら「自爆テロ」は犯人が自爆し、証拠を消してしまう手法だからです。そのため犯行の指示をしたテロ組織中枢に、警察は手を出せないのです。
アメリカ政府は、のちにウサマ・ビンラディン殺害作戦を実行しました。アメリカ石油メジャーによる石油資源の支配、米軍のサウジ駐留など、中東のテロ組織が抱く「反米感情」は凄まじいものがあり、ビンラディンはその象徴的人物であったためです。
イギリスの首都ロンドンでもテロ発生
イギリス国内ではムスリム(イスラム教徒)やアラブ系住人への嫌がらせが発生するなど、イスラム教やアラブ人に対する偏見が広がる結果となってしまいました。
その10年後、パリでも同時多発テロが発生
死者130名の悲劇を引き起こした犯行グループの首謀者は、ISIL(イスラム国)傘下のイスラム過激派出身で、他にアルジェリア系フランス人や、ベルギー人、シリア人が発行に加わりました。この事件では、ISILのテロ活動に密かに共鳴する若者たちが多いことが話題となりました。
ISIL(イスラム国)の猛威
平成31年(2019年)2月現在でも、ISILによるイラク・シリア地域での復権の可能性が指摘されており、彼らの活動はいまだに続いています。
多くの日本人は、平成27年(2015年)1月に起こった拘束邦人2名殺害事件を鮮明に記憶していることでしょう。 湯川遥菜(ゆかわ はるな)さんと後藤健二さんが殺害され、その動画が公開されるという、なんとも痛ましい事件でした。
「テルアビブ空港乱射事件」は無差別自爆テロの源流
戦いのためには無実の市民を殺しても構わない、そして自爆テロなら首謀者グループは繰り返しテロを指示できる――。このような恐ろしいセオリーを提示したという意味で、日本赤軍が世界に与えた影響は計り知れないのです。
「日本赤軍」の過去を忘れてはいけない
もし新たなテロ事件のニュースを目にしたときは、岡本公三と日本赤軍の過去を思い出し、あなたの大切な誰かに「昔、こんなことがあったんだよ」とぜひ教えてあげてください。
過去の事実を知ったうえでテロ事件のニュースを見れば、決して他人事ではないことを実感できるはずです。誰でもいずれ選挙権を持つことになる日本人にとって、過去の出来事を知ることは何よりも大切なのです。